五話目

 ボロボロになった心を癒してくれるのは過ぎ去るだけの時間だった。いやただ心が風化したとでもいうべきだろうか。つらさも悲しさもボロボロになって残ったのはむなしさだけだった。

 結局は手袋は帰ってこなかった。マフラーはただの布切れにされた挙句、たぶん彼女らの汗か何かにつけられてべちょべちょになって帰ってきた。どう頑張っても直せるわけではないし、触りたくもない。

 ポケットの中からハンカチとティッシュを取り出して顔をふくと、化粧らしきものが大量についている。まあ誰に見られるわけでもないのでそのまま教室に戻ることにした。授業の途中で教室に戻ったらいろんな人に注目される。こんなボロボロの姿は見られたくないので、一時間目は適当に時間をつぶすことにした。

 ぼんやりと通路の窓から外を眺めていると冬の到来が感じさせる。地球も私の心も荒んでいく。背の低い小さな若木に同情した。

 一時間目の終わりのチャイムを聞くと、なるべく自然に自分の教室に戻った。確か一時間目は担任の授業だから、もしあっても軽く誤れば済まされるかな。そう思ってあふれ出した生徒に逆流して教室に戻った。

 教室に入った瞬間、幾多の視線が一瞬私を突き刺した。まるで教室の前後がひっくり返ったようにほぼ全員が一瞬私のほうを向いて、すぐに全員が顔をそむけた。そんなに注目されることなんてあっただろうか。

 自分の席にそれ以上彼女らが手を出していないことを確認して安堵すると、席にどっかりと座った。隣には当然のように空いた席。私の友人だった人はそこにはいない。

 さっきまでのことは考えない。マフラーも手袋も食費を切り詰めればいいだけの話。つけ焼き刃のような私の心を保つにはそう考えるしかなかった。

 さっきから私のことをちらちらとみる視線がある事に気が付いた。それは教室の中からで、多分同級生から。しかも一人や二人ではなく多くの人からだ。まあ授業一コマ受けなかった人が急に帰ってきたんだしそんなものなのかもしれない。

 なるべく心を平穏にしようと目をつむった私の耳に教室でよく聞く女子の声が聞こえた。

「晴翔の……は中国……だってさ。」

 ぶつぶつと途切れながら耳に入ってきた情報を理解するのに数秒かかった。

 まさかあの子が私のお母さんのことを知っているのだろうか。いったいどこから。それを知っているのって。

 そこまで考えてから一瞬で腑に落ちた。そのことを知っているのはこのクラスの中なら美雪と桃花しかいないはずだ。でもほかにいるとすれば、燈子しかいない。

 あの人はどこからそんな情報を仕入れるのか、いつの間にか私のお母さんのことも知っていた。たぶん彼女がクラスメイトに漏らしたんだろう。流石彼女らしいやり方だと謎に感心してしまう。

 クラスの私に対する視線はたった一時間で大きく変わった。ただのクラスメイト、不登校から戻ってきた人から社会のお荷物、除け者になった。まあそういわれてしまえば言い返せない立場にいるのは私だから仕方ない。そう考えるしかなかった。

 クラスのひそひそ話から聞こえてくるのは私の名前ばかり。考えすぎであってほしいと願うけど、野次馬のように多くの人が情報を共有し、そのたびに勝手に新情報を付け足している。借金まみれだの体売ってるだの、根も葉もないそんな話。

 自然とため息が口からこぼれる。視線はいつも教室の窓に向いている。こんな教室飛び出したい。けど家に帰ってもゲームはできないな。寝ようとすれば燈子を思い出す。それでも勉強している間ぐらいは平穏かな。

 結局それ以降一回も燈子たちはちょっかいをかけてこなかったけど、クラスでの私の居場所はなくなった。尾ひれのついたうわさが飛び交い、嫌な視線がこっちを向くだけ。それはさっきの感情のように時間で風化することはなかった。

 帰りのホームルームが終わって周りの人たちは部活に行ったり、帰路についたり、居残りで勉強する人もいた。もうじきテストなんだなというのを思い出させられた。

 部活に行くか。それともそのまま帰ろうか。どうせ私が部活に行ったところで何の役に立てるわけでもない。どうせ小森先輩の足手まといになるだけだ。それに、俊と顔を合わせないといけない。

 今の精神状態で部活に行ったところで邪魔になるだけだと思って、今日は部活を休むことにした。顧問には、まあ事後報告でいいかな。

 久しぶりに早い時間帯の下校で、珍しく町には日差しが届いている。代わりに部活終わりに比べて生徒の数は圧倒的に少ない。帰宅部はとっくに帰ってしまい、中途半端な時間帯だからだろうか。燈子には合わないだろう時間帯を選んだ結果、冬の寒い道を一人で歩くことになってしまった。

 昨日まで真っ暗に見えていた道、少し前まで俊と笑いながら歩いた道、美雪と桃花と食べ歩いた道がまた違った顔を見せている。裸になった木々と枯葉を容赦なく照らし出す太陽がここまで残酷だとは思わなかった。

 枯葉を強く踏まないようにしながら家まで歩いた。学校から離れるにつれて段々とため息が少なくなる。やっぱり家は私にとっての唯一の安息所らしい。本当は高校も部活もそういう場所にしたかったんだけど。

 家についてようやく一息つこうと思ったときだった。

ピーンポーン

 珍しくうちの家のはインターホンが鳴った。最近は通販で何かを買ってもないし、いったい誰だろうか。少し緊張しながらインターホンの通話ボタンを押した。

「はい」

「私、南 朱里と申します。木戸さんにお話が合ってお伺いしました。」

 あまり若くない、気の強そうな女性の声だった。木戸さんにお話し。この言い方からして多分私相手ではないんだろう。どうせお母さんは帰ってこないだろうから、お帰り願おう。

「うちの母はまだ帰ってませんので、今日はお引き取りお願いします。」

 これで通話を切ろう、と思ったがまさかの答えを相手は言った。

「確かにお母様のことですが、あなたにも関係があるのでお話しませんか」

 思わずため息が漏れた。ようやく落ち着けると思ったのになかなかうまくいかない。しかし、相手の様子からして無視するのもよくなさそうだ。

「じゃあ、ちょっと待っててくださいね」

 そういって玄関に向かった。扉を開ける前に、ドア越しに相手の様子を見る。さっきまで話していたのは女性だけだったけど、どうやらもう一人誰かが付いているらしい。厄介なことの予感がしつつも玄関の戸を開けた。

「どうぞ。それであなたは誰ですか?」

 扉を開けてすぐに見慣れない影のほうの人に向かって聞いた。目に入ったのは、綺麗な七三分けにいかにもなパソコンサイズのかばんを持ったお堅い役所で働いていそうな男性だった。

「私は朱里さんの件で依頼されている担当弁護士です。どうぞお見知りおきを。」

 そういって差し出されたのは一枚の名刺だった。聞き覚えのあるような弁護士事務所の名前と弁護士番号が記載されていて、一切飾り気のない紙きれを一瞥するとポケットにしまった。二人を食卓まで連れ込んだ。二人してレッドカーペットでも歩いているのかと思うぐらい綺麗な姿勢で食卓の椅子に座った。本来はお茶でも出すべきなのかもしれないけど、突然すぎて何の用意もない。

「お茶の一つも出せないですみません」

 彼らの前に立って誤ると、朱里さんのほうがにっこりと笑った。

「別に気にしませんので。それよりも今日お話ししたいのはお母さんの事なんですけど」

 そういいながら私にも座るように指示した。彼らのちょうど真ん中に正対するように座ると、弁護士のほうが大きな茶封筒を取り出した。横目にそれを眺めながら朱里さんが続ける。

「あなたのお母さんが私の夫と不倫をしていました。私の精神的苦痛を鑑みて慰謝料を請求したいということです。」

 お母さんが不倫をしていた?いったい何を言っているんだこの人は。どんな了見でそんなそんなことを言っているんだろうと思って朱里さんの目を見るも、一切の影のない目をしている。

 それに慰謝料っていったいなんだ。多分お金を払えっていうことなんだろうけど、そんなこと法律で決まっているんだろうか。とにかく頭で浮かんだ疑問を聞くことにした。

「不倫をしていたといいますけど、そんな証拠はあるんですか。それに慰謝料の請求って法律的にいいんですか?」 

 私の言葉は朱里さんに向けたものだったけど、帰ってきたのは隣の男性の声だった。

「こちらがその資料になります」

 そういって茶封筒から取り出されたのは六枚の写真。そのどれもが同じ建物が背景になっていて、中のよさそうな男女が写っている。

「ここに写っているのはあなたのお母さんと朱里さんの旦那さんです。本来は本人の確認が必要にはなるんですが、本人がいないので確認は取れませんが。」

 言われた通り、確かに女のほうは私のお母さんで間違いなかった。よく見ると後ろの建物はホテルのように見える。しかし大きな垂れ幕に書かれているのは明らかにいかがわしい文句ばかり。心底ため息が出た。

 しかしこれで納得がいった。ここ最近あのお母さんの帰りが遅かったり、家に寄り付かなくなったのは、この男との逢瀬のためだったんだろう。そうでなければ知り合いもいないあの人が朝帰りなんてするはずがない。これまでもお母さんに期待も信頼もなかったけど、よりどん底に落ちた。

 私のため息に朱里さんが反応した。

「一人娘が片親の不倫話を聞かされる気持ちは察しきれないですね」

 今日学校で広められたせいで聞いて驚きもしなかったけど、朱里さんは私の家の情報まで調べていたらしい。まあ我が家の家族構成は単純だから調べるに難くはなかっただろう。

 私が彼らの話を理解しようと時間をかけている間は一切の言葉を発さなかった。そのおかげで、よりお母さんのバカさを理解した。一息ついたところを見て、また朱里さんが口を開いた。

「そしてこれが示談書です。」

 言葉だけ彼女がいい、書類を出したのはまた弁護士だった。先ほどの茶封筒を漁って数枚のノートサイズの紙を取り出すと私の前に置いた。あまり多くを話さない人なので、弁護士というよりただのおつきの人のようだ。

 一番上に大きく示談書と書かれている二枚の紙。うわさぐらいでしか聞いたことのない紙をこんな理由で見ることになるとは思わなかった。ため息交じりに上からその文章を読む。目を通している間に、補足説明のように朱里さんが話す。

「本来は先ほどの資料とともに内容証明郵便で送ったのですが、受け取らなかったようなので直接持参しました。」

 そういえばポストに見慣れない不在届が届いていた。新手の詐欺かと思って連絡しなかったけど、まさかこういう関係のものだとは思わなかった。

 第一項の事実確認という欄を読もうとするも、法律関係らしい独特な文体にうまく頭が追い付かない。甲や乙で代名される人が誰なのか覚えきれないし、見慣れない言葉が多用されている。どうしたものかと顔を上げると、弁護士のほうが口を開いた。

「これは示談書と言って、今回の不貞について民事裁判をせずに合意するための契約書のようなものです。ここに書かれている内容を簡単に説明すると、不定の事実を認め朱里さんに謝罪し、現金300万を支払ってくださいというものです」

「300万!?」

 なんて大金を口にしているんだと思い、出てくる言葉をすべて吐き出した。

「確かにうちのお母さんが不倫をしたかもしれませんけど、そんな大金うちにはないですよ。ただでさえ生活がギリギリなのに」

「それはあなたの事情でしょう」

 私の言葉を朱里さんが遮った。

「あなたの事情がどうであろうと関係ありません。あなたもあの人の娘なら同罪も同然ですよ。」

 朱里さんの言葉に押し黙る。確かに私は直接関係はなくとも、彼女は被害者であってそれに変わりはない。私が文句を言える口ではない。

「あなたの言いたいこともわかりますが、こちらは内容証明郵便を一週間も放置して待たされた身です。ですから、もう一つ条件を付します。」

 隣の弁護士がさっきの示談書を逆さ読みしながら、一か所に指をあてて読み上げた。

「12月17日。つまり明日までに謝罪の意思がないと判断した場合、慰謝料に200万を加算するものとする。」

「明日までにお母さんを見つけて示談しなければ200万多く請求します。」

 堂々たる宣言。あまりに堅牢なその姿勢に私が付け入るスキはないようだった。小さな声で私は一つ朱里さんに聞いた。

「ちなみに、示談を断ったらどうなりますか?」

 その言葉に答えたのはなぜか弁護士のほうだった。

「その場合は示談決裂ということで民事訴訟を起こします。その場合にも慰謝料を請求しますし、強制執行と言って家財などを押収することも可能になります。また裁判記録が残りますから、社会的立場にも影響があるかもしれません。」

 私は明日までにお母さんを捕まえて示談を成立させれば300万円の慰謝料を払うだけ。もし明日までに捕まえられなければ200万円増額か民事訴訟を起こされる。どの結末も私を絶望させるには十分だった。

「わかりました。明日までに頑張ってお母さんを連れてきます。」

「ぜひそうしてください。明日も同じ時間に来ますので、お願いします。下手すればあなたの学校生活もできなくなりますからね」

 そういうと朱里さんは立ち上がった。それを見て弁護士は茶封筒だけをカバンに入れた。中身はいらないのか聞いたところ、受け取っておいてほしいと言われたので机に放置した。

 玄関まで彼女らを見送ると、朱里さんは来た時と変わらない顔つきをしていた。隣の弁護士は終始変わらない表情だったけど、この時は少し疲れが出ていた。

 ようやくお家で一人になった私だったけど、全く持って心を落ち着か競るどころではなかった。急いでスマホを取ると、顧問から連絡が入っていた。無断欠席のことだろうけど今は変身している余裕はない。急いでお母さんに電話をかけた。

 電話のコール音を聞きながら考える。もしこれで電話がつながったとしてお母さんは300万円なんて払えるのだろうか。私の生活はどうなるんだろう。この家に住み続けることはできるのだろうか。

 一向につながらない電話を片手に、目の前に広がるあまたの絶望と虚空におびえた。しかし時間は私が立ち止まることを許さない。そっと私の背中を押して崖から落とそうとする。私にはそこからあらがう気力は残っているのだろうか

updatedupdated2024-03-212024-03-21