二話目

 涙が枯れて涙痕だけになってから、コンビニをぐるぐる回ってお昼ご飯を探した。今日のお財布には142円しかない。なるべく栄養のあるものが食べたいけど、ちょうどいいものがなかなか見つからない。

 結局見切り品コーナーに置かれていたチョコのお菓子と塩結びだけを買って外に出た。まだ晴れやかな空はどこまでも続いている。ふっと、名前の通り空を飛べたらなんて思ってしまった。

 きっと彼らが歩いた後であろう道を追いかける。俊も歩いたんだなと思うと、それだけで気持ちが落ち着かなくなってしまい、塩結びにかぶりついて飲み干した。今は何も考えないぐらいがきっとちょうどいい。

 駅について電車にゆらゆら揺られている。向かい側の席では高校生の男女が仲睦まじく座っていた。はぁと大きくため息をついてスマホに目を落とした。ちらちらと視界の端に映る彼らを意識するたびに嫌な気持ちがよみがえった。

 家の最寄り駅から家までそう遠くはない距離のはずなのに、足取りがやけに重く険しい山道のように思えてしまう。そんな時に、スマホの通知音が鳴った。すぐに見なきゃと思いつつも、見たくない気持ちでを抑えてしまう。

 結局一呼吸おいてからスマホを開いた。そこに書かれていたのは、俊からのメッセージだった。

「今日は休日だから高いし、明日にでも行くよ。今のところテーピングとアイシングあれば大丈夫だし。」

 見なければ、気が付かなければと思ってしまう。それでも、思ったことをそのまま変身した。

「別にお金かからなくない?それに今はよくてもだんだんひどくなるかもよ」

 送信ボタンを押してから、携帯を消音モードにした。少なくとも家に帰るまではもう見ない。少しでも長い球速が私には必要だと思った。

 家に着くとシャワーを浴びてすることもなく勉強机の前に座った。いつもならパソコンをつけてゲームをするんだろうけど、今は彼が出てきそうだからやめた。代わりに美雪から出されていた課題を終わらせることにした。

 思うように勉強が進まない。得意だったはずの数学の問題も、前だったら簡単に計算できたはずの問題に何度も躓く。少しひねりを加えた問題の解き方が思いつかない。勉強をおろそかにしてきたことの結果だなんて信じたくなかった。

 何とか根性で数学の課題だけ終わらせると、一度休憩にした。手元に置いてあるスマホにふと目線が行った。美雪は桃花から連絡が来ていたら返事をしなきゃと思うけど、俊からの連絡は今は見たくない。少し考えてから、一応通知が来ているかだけ確認することにした。

 予想通り、俊からしか連絡が来ていない。今はあの人のことは考えたくないので、スマホをそのまま伏せて勉強に戻った。

 最近は私が学校に行けなかった頃の問題をやっているから、授業でも聞いたことのない内容ばかりだ。美雪はわからなければ聞いてもいいとは言ってくれたけど、前の勉強会を思い出すと彼女には頼れなかった。

 教科書と問題集を見比べながら問題を吟味していると、スマホが鳴った。今は通知を切ってるから今のは電話だろう。とっさに相手の名前を確認せずに応対した。

「もしもし?」

「あ~もしもし?」

 一瞬で電話に出たことを後悔した。よくよく考えれば今私に電話をかけるような人はあの人しかいないわけで。電話に出たら話をするしかないわけで。

「いくらメッセージしても返事がないから心配したじゃん。何してたの?」

 威圧的な彼の声に委縮してしまう。顧問に怒られたときのような気分で答える。

「課題が終わらないから勉強してただけです。勉強に集中したくて通知切ってました。」

「あっそ。まあ別の人と遊んでるんじゃなければいいや。」

 怒られなかったというだけで心から安堵した。それから俊の電話のBGMが気になった。

「そういえば俊は今どこにいるの?」

 すると俊から大きなため息交じりの声が聞こえた。

「本当にメッセージ見てないんだな。まあ家に帰ってのんびりしてるよ」

 明らかに家で流れる音量ではない。多分どこかのフードコートにでもいるんだろうけど、どうしてわざわざうそをついているのやら。まあ早く電話を切りたかった私はとっとと用件を聞くことにした。

「それで、なんで電話してきたの?」

「それなんだけどさ」

 思い出したかのようにとんでもないことを言った。

「俺たちさ、別れない?」

「え?」

 言っている意味が分からなかった。辞書にない単語を調べているかのように、私の頭の中はnot foundで埋め尽くされた。

「別れるって?」

「もう付き合うのやめたいなぁって思ったからさ」

 ようやく言葉の意味を理解した。心の壁を壊されるような、建物の柱を折られるようだった。詰まるのどから洩れたのはわずか三音だけだった。

「なんで…?」

 疑問、公開、焦燥。あらゆる感情が崖っぷちに立たされているような、いやもしかしたらすでに突き落とされていたのかもしれない。

 感情が心をパンクさせている私に、まるで空き缶を捨てるかのような軽い言葉で彼は言った。

「まああんまり楽しくないし、晴翔がめっちゃ干渉してくるからかな。」

 一息置いて俊はつづけた。

「だから別れよ。それじゃ」

 つーつーという音が鼓膜を揺らし続けた。呆然と壁を見つめていると、段々と視界が滲んでいくことに気が付いた。自然と口から嗚咽が漏れてきて、ようやく自分が泣いていることが分かった。

 なんで、どうしてと言葉が口から洩れた。視界は大雨の後の車窓のように何も映らない。かろうじて移るのはじぶんのこころだけだった.目をつむったまま、記憶を頼りにベッドに飛び込んだ。枕を抱きしめながら涙をこすりつけた。

 これだけ俊に合わせて生活してたのに。ゲームに誘われれば行くし、ご飯も一緒に食べた。最初こそおごってくれたけど、途中からは二人で折半してた。そのせいでカップ麺生活に戻して節約だってした。

 洋服だって趣味だって彼に合わせるようにした。自分が好きじゃなくても、俊に好かれようといろんな服を着た。ゲームも俊に言われるがままに新しいものを始めて、教えられながら遊んでた。そのために学校で課題を終わらせるように頑張った。

 交友関係だって、部活以外で男子とは関わらないようにした。友達だってクラスの人とはあまり話さないで、美雪と桃花の二人だけにした。部活でもなるべく必要なこと以外話さないようにしていた。

 それなのになんで?私に何が足りなかったって言うの。

 干渉するっていうけど、結局私の言うこと何一つ聞かないじゃん。勉強が忙しいって言ってもゲームさせられるし、予定があっても遊びに付き合わされた。それなのに、私がゲーム誘っても入ってこないし、私が提案したお店にはいかないし。

 一緒に買った服だって、いつも来てたのは私一人。何回か無理に着させたけど、全然楽しくなさそうだからやめちゃったし。その服のお金だって私が払ったんだよ。私は交友関係に口出しなんてしなかったしさ。

 これだけ嫌なことが浮かんでも、目をつむれば彼が笑っていた時の姿が浮かぶ。私の隣で楽しそうにバレーについて語る俊。ファストフード店でおいしそうにポテトをつまんでいる俊。そしてゲームで勝った時の嬉しそうな声。記憶に再生停止ボタンがないことを心から恨んだ。

 これだけ記憶がとめどなく押し寄せてきても、一切の濁流がない。すべて彼が笑っていたり楽しそうにしていたりする場面ばかり。その横に私がいる。いたんだ。

 今日二回目の涙の欠乏で泣き止んだものの、さっきほど気持ちは晴れやかにならなかった。それでも視界を取り戻した私はベッドから出てスマホをつかんだ。一瞬嫌な可能性が頭をよぎったけど、通知は何一つ来ていなかった。

 スマホを開いて適当に思いついたワードで検索する。

「彼氏 振られた」

 すると、私の予想通りいろんな女性向けサイトがずらっと振られた後の立ち直り方や寄りの戻し方について載せていた。とりあえず一番上のサイトを開いてみる。

「まずは振られた理由を分析しよう」

 最初の題目を読み進める。振られた原因を書き出してみることをやたらと勧められる。そんなことして意味があるのかはわからなかったけれど、なんとなく今は手を動かしているほうがいいような気がした。

 机の前に座り、問題集と教科書を閉じるとルーズリーフの一番上に「俊に振られた理由」とだけ書く。それだけで枯れたはずの目元がうるおされた。

 思い当たることを手当たり次第に書き出す。私のゲームセンスがなかったこと。遊びや食事がいつも同じだったこと。段々とお互いの存在に慣れてしまったこと。メッセージに返事ができないことがあったこと。美雪たちとは縁を切れなかったこと。着るタイミングを逃した服が合ったこと。

 さっきまで俊にばかり悪いことを言っていたけど、書き出せばキリがないほど自分のだめだったところが思いう感てしまう。ルーズリーフ一枚分箇条書きで埋めてから、私も彼のことを言う資格はないんだなと気が付いた。

 意外と振られて当然だったのかもしれない。私が思った以上に私はどうしようもない人間だったんだ。ただそれで俊に嫌われてしまっただけなんだって。そう思うとさっきまでの混沌とした気持ちも涙も全部馬鹿らしく思えてしまう。乾いた笑いが部屋に反響した。

 それから久しぶりに料理でもしてみようかと思ってキッチンに立った。泣き疲れたせいか、まだ午後五時くらいなのにお腹がすいた。最近は朝ごはんもまともに食べないし、カップ焼きそばしか食べてなかったからここから見るテレビの大きさも忘れてしまっていた。

 ふとキッチンワゴンの上に置いてある食パンの賞味期限を確認する。一応お母さんが食べるだろうと思ってとっておいたけど、いつ置いておいた奴が残っているのだろうか。見れば十一月ごろ、まだ私が朝ご飯を食べていたころから変わっていなかった。

 冷蔵庫を開けてみると、新居なのかと思うほどにすっからかんだった。残っていたのは私がお母さんのお夕飯用に買ってきたいくつかのおかずだけ。白米だって炊いてない。今更お母さんがこの家でご飯を食べていないことを知った。

 それを知ったところで私にとっては今日のお夕飯が少しぜいたくになるぐらいの違いしかなかった。残っていたコンビニのエビチリを取り出した。賞味期限は案の定切れていたけど、適当に火を入れれば食べられるだろう。

 先にお米を炊飯器にセットして炊飯する。その間に包丁で少しキムチを刻むことにした。真っ赤なコチュジャン訛りの辛さのたれを眺めながらある思考が頭をよぎった。

 この包丁で私の手を切ったらどうなるんだろう。

 しかしそんな思考は次の瞬間には緊急停止していた。鋭い痛みが左手の人差し指に走った。確認すると少しだけ包丁で切ってしまったらしい。血が流れているので、急いで手を洗ってからキッチンペーパーできつく抑えた。

 止血で着てからキムチを見たけど、どこに血が混ざっているのかよくわからなかった。仕方なくそのままエビチリと炒め合わせる。二種類の辛さのブレンドに少し鉄のにおいが混ざっていた。

 少しだけみりんを加えて甘みをつけて、エビにしっかり火が入ったのを確認するとお皿に盛りつけた。ちょうどご飯もたけたので、お茶碗によそってお夕飯にする。久しぶりに食べるカップ焼きそば以外のお夕飯だった。

 キムチとエビチリの炒め合わせは意外にもおいしかった。見知らぬ国のエスニック料理にありそうな味付け。泣き疲れた体に適度に激を入れながら、心を滋養する。合わせてご飯もかきこめば栄養も取れて完璧だった。

 食べ終えた頃には振られてよかったと思えた。これで私は自分の悪いところを見つめなおせたし、少しは自由になれるはずだ。有り余るエネルギーで美雪に電話をかけようかと思ったけど、その力は勉強にそそぐことにした。その日もお母さんが家に帰ってくることはなかった。

updatedupdated2024-03-212024-03-21