初めての受験

 それから、僕達は本気で勉強した。そもそも僕はほとんど勉強してこなかったから、一年生の頃の教科書の記憶に、かなりの抜けがあった。終盤の追い込み勉強だと、努力している暁さんに教えてもらうことの方が多くなってきた。公立の勉強となると、私立のように難しい問題は出ないので、僕の性には合わなかった。逆に暁さんはそっちの方が得意らしく、ほぼ一日中教えてもらう日々が続いた。後から聞いた話、暁さんはこの頃の塾をほとんど休んでくれていたらしい。そのせいで、塾から心配の電話がかかってきてたらしいんだけど、それすら僕は気が付かなかった。

 お陰様で、受検前日にはかなり解けるようになっていた。いまは、寝る前のちょっとした勉強をする時間になっていた。いつもみたいに、二人ともお風呂から出た後、少し飲み物を飲んだ後の、過去問の復習時間。前日は心を落ち着かせるためにも、あんまり気を張り詰めないようにしている。

「にしても、明日試験だね」

 一段落したところで、僕が話しかけた。休憩モードの暁さんは、いつもよりゆったりした声音でいう。

「意外と早いんだね。でも、蓮の記憶能力ほんと羨ましいね。」

「そんなにすごいこと?」

 あんまり自分の記憶力に自身がなかった僕は、聞き返してしまった。

「すごいことだよ。3年間の勉強を数日で覚えきったんだから。」

「一応授業は聞いてたからね。ほとんどは覚えてたよ。」

 と冗談を言うと、暁さんにすぐに否定されてしまった。

「いやいや、あれだけ最初酷かったのに。」

 そう。僕の公立高校の最初の頃の得点は、今でこそ笑えるけど、相当な点数だったんだ。

 あの日は、少し暗い雰囲気の中で、ちょっと実力試しをしたんだ。数年前の過去問を二人で説いたんだけど、ものすごい結果が出てしまった。まさかの、名門私立高校の平均点と同じくらいだったのだ。合格点まで遠すぎたから、受検は諦めかけていた。でも、今みたいな結果が出ているのは

「光の教え方が上手いからだよ」

 すると、暁さんは嬉しそうにしながら

「そうかな?そう言って貰えると嬉しいけど。」

 と言う。暁さんが嬉しそうにしているのは、利己的かもしれないけど、自分の目標が達成できていることだから、僕としても嬉しいんだ。だから、暁さんを立て続けに褒めた。

「あれだけ真剣に教えてもらったんだから、覚えられたんだよ。」

 ふと、壁に掛けられた時計を見ながら、暁さんは言う。

「それなら良かった。あと、今日はもう寝なよ。」

 まだ勉強したりないと感じた僕は、不満の声を上げた。

「もうちょっと勉強しようかと思ったんだけど。」

 すると、僕よりも受験に慣れていると思う暁さんは言う。

「やめた方がいいよ。明日のために寝た方が絶対効果あるよ。」

 専門家に言われたら仕方ないと感じた僕は、諦めて食い下がった。

「そうかな。光はこの後どうするの?」

 すると、暁さんはやけに真剣そうな表情で言った。

「蓮が寝るのを見たら寝る」

「わかったよ」

 どうやらさっきの暁さんの発言は冗談だったらしい。

「あはは。まあ、早く寝て、明日実力出せるようにね。」

 寝る支度を整え終えた僕は、階段を登りながら言った。

「そんじゃ、お休み」

 ほとんどなにも持たないで、暁さんは自室に入りながら言った。

「おやすみなさい」

 それから、僕の部屋に戻った。そのまま布団に入ったけど、なかなか寝付けなかった。どうしても、明日のことが不安になってしまった。

 確かに勉強はした。それでも、心配なことのは心配にだった。根拠の無い不安に囚われていた。

 仕方ない。寝るためなら、ということで、適当に近くにあったものを抱くことにした。何かを抱きしめていると、こころが落ち着くんだ。すごく単純な発送だけど、本能的に心が休まるんだ。毛布をひとつ、丸めて抱きしめたら、温かさに飲み込まれてしまった。

「ふわぁ」

 何もかも忘れるように寝てしまった。今更だけど、年表や感じ、英単語を復讐したほうが良かったかな。

 試験の日

 いつもより少しだけ早く起きた。支度が遅れたり、道に迷っても焦らないようにするために。なるべくいつものように準備する。なるべくいつものように、二人で朝ご飯を食べる。これが、かなり心を落ち着かせてくれた。

 今は、試験会場である高校に向かっている。一度来た道とはいえ、あの日のことは忘れているので、暁さんに連れて行ってもらうことになった。二人で高校までの道を踏みしめるように歩きながら、軽い会話をしている。   「そういえばさ、蓮ってどこ受けたの?」

「ここだけだよ」

 あからさまに驚いた様子をした。転ばないか心配になるぐらいに、大げさだった。

「嘘でしょ?。滑り止めとかは?」

 僕は、いつものように冗談めかしていった。ふと、彼方の顔を想いながら。

「滑ったら終わりまで行っちゃうよ。戻ってこれたのがこの時期だったから、私立は出願できなかったんだよね。」

「それもそうだね。それじゃ、今緊張してる?」

 僕は、自分の心臓に手を当ててみた。降圧剤を飲んているのか心配になるぐらいに、激しく鼓動している。

「してる」

「そうだよね。それならね、本貸してあげる。」

 と言って、暁さんはリュックから一冊の本を取り出して、僕に手渡した。

「本?」

 受け取ると、それは受検に関する本ではなさそうだった。

「うん。ただの単行本。試験の合間とかに読んでなよ。」

 彼女の奇抜な発送に、僕は思わず聞いた。

「なんで?」

 すると、暁さんは受検の専門家のように言った。

「本読んでれば、安心するよ。この本は、短い時間で読める短編ばっかだからちょうどいいでしょ。」

「確かにちょうどいいかもだけど、見直しとかは?」

 未だに自分の学力が心配だった僕は、そう聞いてしまった。でも、暁さんは冷静に言う。

「しない方がいいよ。どんなに頑張っても1問はミスが見つかるから。多分それでげんなりしちゃうでしょ。それだと、あとの試験に影響して、何問もミスすることにつながるから。」

 専門家の言葉は、僕を納得させた。

「わかった」

 僕のことなら何でも知っているように、暁さんは話した。

「ゆっくりと本を読めば落ち着けるはずだよ。それに、最近は頑張ってたんだから、そんなに心配しなくていいんだよ」

 諭された子供みたいな心持ちになった僕は、素直に答える。

「わかった」

「それじゃぁ、お互い頑張ろうね」

「うん」

 それから、暁さんと別れて部屋に入った。受験番号は連続しているんだけど、丁度僕と暁さんのところで部屋が別れてしまったのだ。受験会場に入って、微妙な空き時間に本を読んだ。周りが単語帳や年表を開いているのを横目に見ながら、ただひたすらに活字を追っかけた。

 暁さんから借りた本は、面白い短編が数多く収録されていた。周りでは勉強の話ばっかしているが、そんなもの耳には入れなかった。本に集中したかったんだ。

 それから注意事項やら、点呼やらが行われた。試験会場の雑念が一斉に押し出されて、緊張一色に染まっていく。そんななかでも、僕は一人で本の内容を思い浮かべていた。

 暁さんから借りた本には、本当に五分ぐらいで読める軽い話がたくさん収録されていた。だから、点呼の最中などに頭に残っていても、気にはならなかった。長編だと、続きがどんどん気になってしまうが、読み終わっているから、続きを気にする必要もない。暁さんはきっと、これまでにもいくらかの高校を受けたのだろう。だから、きっとこれが暁さんにとっての最適解だったに違いない。

 試験が始まってからも思ったが、暁さんから借りた本は本当にちょうど良かった。やけに頭がスッキリとしたまま試験に挑めた。混沌とした記憶がないおかげで、思考が整理されているので、落ち着いて、しっかりと問題を読んでといた。焦らないでいられたのは、本当に助かった。きっと、僕が一人で試験会場に来ていたら、お香はなっていなかったに違いない。

 それから、試験の合間の時間や、昼食の後にも、ずっと本を読んでいた。他の人から見たら、変な人に思われただろう。せっかくの時間にも、勉強してないんだから。そうとう余裕なのか、ただ遊びで受けに来たのか。

 そう思われたに違いない。まあ、実際にはどっちでもないんだけどね。ただ、心を落ち着かせるために本を読んでいる。

 この調子で、全てのテストを無事に終えることが出来た。公立高校の問題だから、手応えと呼べるほどのものはないんだけど、ミスは少ないと思うから多分過去最高の点数だったんじゃないかな。まあ、暁さんには負けるだろうけど

 教室を出て、隣の教室に入るか迷ったけど、学校から出ることにした。なるべく、変な目で見られるのは避けたいのだ。試験の合間に本を読んでいる時点で変な目で見られているとは思うんだけどね。

 高校の正門を出て、ちょっとしたところで暁さんを待っていた。周りは学校の友達なんかと話しながら帰っていく。今日の問題の話や、落ちた後の話をしている人もいた。その中に混ざって、居キョロと周りを見てる暁さんもでてきた。彼女に見えるように手を振りながら

「やっほー」

 すると、暁さんは少し周りの目を気にして、恥ずかしそうにしながらこっちに近づいてきた。隣りに立つと、開口一番

「蓮は今日のテストどうだった?」

 と聞いてきた。僕は少しだけ自身が有ったけど、それを隠して言う。

「あんまり悪くは無いと思うけど」

 そんな僕の声に、暁さんは安心した様子だった。

「なら良かった。どうせなら帰りに彼方のお見舞いに行かない?」

 彼方と聞いて、病室で寝ている彼女を想う。あの子が寂しそうにしているところは見たことないけど、きっと一人でいるのは、人肌恋しい気持ちがあると思う。

「いいよ。これで一段落したしね。」

 暁さんは、軽い伸びをしてスッキリした様子で言う。

「これからは勉強しなくて済むし、彼方のお見舞いになるべく行きたいね」

「彼方と話すの楽しいし、明るくなるからね」

 制服姿のふたりは、新しい何かを求めるように、駆けて行った。北風に混じって、梅の香りが彼らを追いかけた。

 病院に向かう最中は、ほとんど僕らは話さなかった。話すこともなかったし、お互い彼方に会うことで頭がいっぱいだったんだと思う。少なくとも、僕は一人でカーテンに仕切られた彼女のことだけを思っていた。病院で手続きを済ませ、彼方がいる病室に入ると、僕らが挨拶する前に彼方に声を掛けられた。

「久しぶり、お姉ちゃん、お兄ちゃん」

 暁さんは、その言葉に今まで見たことのない反応をした。

「お兄ちゃん?!」

 すると、彼方は僕らを恋仲と呼んだときのように、僕を笑うように言った。

「お姉ちゃんには言ってなかったもんね。これから、八雲くんのことをお兄ちゃんって呼ぶことに決めたの。」

なにか、暁さんの目に鋭いものが光った気がした。

「それはいつから?」

 彼方は確認を取るように、僕に視線を向けながら言う。

「お兄ちゃんが退院する一日前に決めたんだよね。」

 暁さんは、更に彼方を問い詰めた。まるで、警察官が目撃者に事情を聞くように。

「なんでお兄ちゃんって呼ぶことになったの?」

 完璧に僕は省かれていた。話に加われないのは寂しいけど、この話題だと仕方ないかな。とにかく寂しいけど

「お兄ちゃんが、自分の家族のことを教えてくれたから」

「蓮、どこまで教えたの?」

 今まで省かれてたから気がつくのに時間がかかった。

「全部だよ。光に教えたのとおなじところまで。」

 すると、暁さんは、これまた見たことない反応を示した。

「ふ~ん。それで家族と認めたんだ」

 なんか暁さんが不服そうな顔をしていた。彼方に教えちゃまずい内容ではないと思うっていたけど、どうやらそうでもないらしい。それをあえて汲み取らないで彼方は言う。

「そう言うこと。まあ、単純に八雲くんって呼ぶのめんどくさいし。」

 妹の前だけ、いつも異常に優しい暁さんになっていた。

「確かに呼びにくい名前だね」

「というわけで、私としては、お兄ちゃんは家族の一員なんだけど、お姉ちゃん的にはどう?」

 僕にとっても、かなり気になる話題だったから、注意深く聞こうとした。居候って家族に入るのかって、かなりシビアな問題だと思う。

「わ、私?私的には、充分家族の一員だと思ってるよ。」

 暁さんは驚きながら、少しだけ頬を赤らめているようにも見えた。

「そうだよね。それじゃあ、お兄ちゃんを暁家の一員として迎えます」

 と、何故か彼方が仕切って、僕を家族として迎えようとしてくれた。素直に喜んでいいのかと、僕は考えてしまった。迷惑をかけることしかできないような気する。

 そんな僕を見て、彼方は落ち着いた様子で聞いてきた。

「あれ、お兄ちゃん嬉しくないの?」

 彼方にそう言われると、僕はこう答えるしかない。

「いや、嬉しいよ。久しぶりに家族ができたんだから。」

「だったらもっと喜んでいいんだよ」

 なんか、暁姉妹のどっちにも諭されてばかりな気がするのは、僕が子供っぽいからなのかな。

「はーい」

 というわけで、暁家の一員として認められました。本当に喜んでいいのか分からないけど。

 家族の一人になっても、迷惑かけて困らせちゃう気がしてならない。自分の家族にしてきたことのイメージがそうだったせいかもしれない。僕が病気だとわかって、先も見えないのに入院して、その費用を稼ぐために働いて、亡くなったんだから。

 でも、今度は暁家であって、八雲家ではない。だから、前の家族とは違うんだけどね。

 それから、病院で彼方を交えての3人で楽しく話した。やっぱり、僕と暁さんだけだと起こらない話の盛り上がり方がある。僕は自分のことでジョークを言うことはあるけど、人はからかわない。暁さんに至っては、自分からそういうことを言うのはとにかく苦手らしい。でも彼方は普通にからかってくる。

 そこが1番違うとこかな。僕もあんなふうにジョークが言えたら、もっと暁さんを笑わせられるかな。

 まだ昼下がりにもなってない時に来たはずなのに、空は真っ暗になっていた。楽しくなると時間を忘れてしまう。僕が窓の外を見ている様子を見た彼方が、僕らに聞いた。

「そろそろ帰る?」

 僕は荷物を持って、急いで帰ろうと思って、別れの挨拶をした。

「そうだね。それじゃ、またね彼方」

 すると、彼方は布団の下から生えたような手で、僕のズボンの裾を引っ張った。

「お兄ちゃんはちょっと残って」

 僕らの様子を見て、何かを悟った暁さんは、ササッと荷物をまとめた。

「それじゃあ、私は先に出てるから」

「すぐ行くね」

 また、何故か不服そうな顔をした暁さんは、病室から姿を消した。暁さんがいなくなった病室には、病人らしい暗い雰囲気が立ち込めた。彼方の声も、どことなく重くのしかかる。

「ねね、お兄ちゃんはさ、家族ってあんま好きじゃないの?」

 僕は、氷の上を滑るように答えた。

「嫌いじゃないさ」

 彼方は、幼さを感じさせない強い眼差しで、僕の目を貫いた。

「それじゃ、やっぱり迷惑かけると思ってるの?暁家に。」

 僕は話したはないけど、悟られているんだから、隠せるわけもないから、素直に答える。

「そりゃあね。居候させてもらってるんだし、こんな病人なんだから、色んなとこで負担かけてるから」

「全く、お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだから。家族ってのは、迷惑をかけ合うものなんだから。」

 子供なのに、僕よりも人生の先を歩んだ人のような語り口に、僕はうまく言い返せない。

「そうだけど…」

 彼方は、僕に呆れたように言う。

「人のことになると元気になるけど、自分のことを考えるとネガティブなんだから。もうちょっと自分のこともポジティブになりなよ。私達だってお兄ちゃんに沢山迷惑かけるんだからいいの。」

「それとこれとは」

 と、僕が否定しようとしたけど、すぐにかき消された。

「いいんだよ。自分の方がかける迷惑が多いとか、重いとかそんなこと考えてたんでしょ。私なんか、最期の願いをお兄ちゃんに託してるんだから。その方が何倍も重いよ。」

 彼方の願いという言葉に、僕は無理やり落ち着かされた。

「確かに、ね」

 彼方は、ぱっと明るい声音で言った。

「だから、もっと喜んでよ。暁家の一員になったことを。」

「わかった」

「あと、私がここにいる間は、ここに戻ってきちゃダメだからね」

 前回のように念押しをされた。完全に否定できないから、中途半端に答える。

「善処します。」

 彼方は、更に強く念押しをした。

「ここに運び込まれたとにほんとに焦ったんだから。それじゃ、お姉ちゃんも待ってるだろうし。」

「うん、ありがと」

 そう言って、僕も彼方の病室を出た。自分よりも4歳も下の子に色々と教えてもらった。なんというか、表面的にはただの明るい少女なんだけど、すごい色々考えてるんだと思う。僕みたいになんにもできない人間とは違う。そういう人にこそ、人に幸せが与えられるんだと思う

「頑張らなきゃな」

 僕の生きる目的。彼方が与えてくれた僕の希望。絶対に叶えてみせる。

 かなり話し込んでしまったので、待たせている暁さんを駆け足気味に探した。病院の廊下にいた暁さんを見つけた。

「おかえり、蓮くん」

「ただいま」

「彼方と何話してたの?」

 少し息を切らしながら答える。

「もう入院しないようにしてって言われた」

「そ。なんで彼方に先に教えたの?」

 すごく素っ気ないようで、心に刺さるナイフみたいに言う。

「家族のこと?」

「当たり前じゃん」

 なんで怒り気味なんだろう。無理に落ち着かせる方法もわからないから、こういうときは素直に言う。

「彼方が僕の家族のことに気がついたからかな。何隠してるでしょって聞いてきたから」

「ふ~ん」

 本当になんで怒ってるんだろう。こういうのを悟れる人にならないといけないのかな。今の僕にはさっぱりわからないけど。

「そんじゃ帰ろっか。これからは自由に来れるからね。」

 と、少し落ち着いた様子の暁さんは、夕日の差し込む病院の窓を眺めながら言う。

「学校の帰りとかにも寄れるし。もっと彼方と話したいしなぁ。」

 さっきの会話を思い浮かべながら答えた。

「きっと彼女もそう思ってるよ。君も、暁家の1人なんだから。」

 暁家の一人。その言葉がまた僕の反応を鈍らせた。

「そう、だね」

 そんな僕の様子を見てか、暁さんは話題を少しそらした。

「彼方からお兄ちゃんって呼ばれるのはどうなの?うれしい?」

「まあ、嬉しいよ僕は一人っ子だったからね」

「一人っ子って楽しくないの?」

 暁さんは、自分の境遇と比較したように言った。僕は、そんな彼女に軽く答えた。

「楽しくないことは無いよ。だいたい何でもさせてくれるからね。ただ、責任重大。」

 暁さんは納得したように言う。

「なるほどね~。私の場合、彼方が産まれてから、親が彼方ばっか見ててつまんないんだよね。まあ、仕方ないことなんだけどね。」

 と、末っ子を嫉妬しながら言った。僕も、自分なりにそんな姿を想像しながら答えた。

「確かに、そうなっちゃうのかも。しかもあんな状態だし…」

「そうなんだよね。まあ、それでも、あの家で何不自由なく暮らせてるからいいけどね。その点は蓮の方が大変そう」

 僕は、自分の過去を少し笑い話的に言う。

「大変だったよ~。まあ、家帰ってから話そっか。この話もしなくちゃね。」

「まだなんかあるの?私たちに言ってないこと。」

 と、僕に怪訝そうな目を向ける彼女から、視線をそらして僕は空に言った。

「これは隠してた訳じゃないんだよ言おうとは思ってたんだよ。まあ、時が満ちたら話そうかな的な。」

「時が満ちたねぇ。ただ、信用出来なかったとしか聞こえないけど。まあ、教えてくれるならいいよ。」

「とりあえず帰ってから話すから」

「はいはい」

 そうして、暮れた日の中、僕らは半ば駆けるように帰っていった。何も喋らないが、気まずさはなかった。僕らの間には、暖かい春の風はまだ流れない。でも、吹雪を起こすような北風はもうやんだようだった。

 そんなに遠くは無いので、あんまり話さなくとも何とかなった。今は、家の中でくつろいでいる。家に着いてからも、特に会話はしていない。キッチンで暁さんの料理が完成するのを待っている。ふと、料理をしながら暁さんが聞いてきた。

「蓮の伝えてないことってなんなの?」

「過去の話だよ。親が居なくなるまでどんな感じだったのか。」

 僕は食卓の椅子から、彼女の料理姿を見ながら答えた。

「きっと、連の親はいい人だったんだろうね」

 と、僕のことを透かしたように暁さんは言った。僕も、その言葉にかぶせるように言う。

「いい人だったよ。今思えば、色々と不自由なこともあったけど、楽しめたしね。」

「結構そういうことあるよね。今思えば、色々と違ってたみたいなこと。」

 きっと暁さんは、彼方が生まれてからのことを考えているのかな。自分のことを見てくれていない様に感じていた毎日のこと。

「うん。でも、かなりいい幼少期を過ごせたと思ってるよ。ただ、期待が大きすぎてた気はするけどね。」

 僕はもう随分前のことのように語る。

「期待?」

 僕が病気とわかる前の両親の姿を思い浮かべる。優しくて、僕の夢のためなら、何でも手を貸してくれた。

「うん。医者とか、そういったすごい人にさせたかったみたいだね。家族の誇りにさせたかったんだろうなぁ」

 暁さんは、少し嫉妬したように言う。

「でも、いいことじゃないの?期待されることって。」

「まあ、悪いことではないと思うよ。だからこそ、僕が病気と知った時に、すごい落胆してたよ。」

 あの時、医師から病気と伝えたときの様子を想い出す。まるで地獄に向かうような雰囲気を。

「なるほどね。期待を裏切っちゃった感じなんだ。」

「裏切る気はなかったんだけどね。結果的に親の期待もなくなって、楽にはなっけど、親を悲しませちゃったから、悔しかったね。」

 暁さんは、僕の境遇を無理に夢想することなく答えた。

「それは、私からは何も言えないなぁ。一人っ子じゃないし、そこまでの病気にもなってないし。」

「まあ、だから、僕は普通に生きたかったな」

 久しぶりに、僕はこんな本音をこぼした気がする。彼方にも言えなかったような弱音。それを暁さんは受け止めてくれた。

「まあ、蓮は蓮だからこそいい所があるんだし。今のままでいいと思うよ。」

 僕は気がついたら、目尻に涙が浮かんでいた。少しずつ増えて、やがて涙腺という防波堤は決壊した。

 自分が病気だと知ってから、僕のことを肯定してくれる人なんていなかった。ましてや、この病気を知っている人には。なんにもできず、ただ薬や機材を使って死ぬだけだと思っていた。だから、その言葉にすごい救われて、思いが溢れ出した。

 そんな僕を見ながら、暁さんは少し困ったように言った。

「あれ、そんな泣くほどの言葉言った覚えないんだけど。まあ、とりあえずお風呂にでも入ってきなよ。」

「う、うん」

 と、泣きやめない僕は答えた。

 風呂に浸かると、溢れていた心も落ち着いてきた。でも、やっぱり誰かに肯定されるってのは大事だと感じた。当たり前にいつもされることのはずだけど、そうじゃない時もある。誰からも肯定されないのは、孤独に感じる。いや、自分がそうしてしまったのかもしれないけど。

 だから、今度は僕が暁さんを肯定する。彼女の全てを肯定してあげようと心に誓った。

 それから、いつものように食事を済ませ、各々の部屋に戻った。布団に入ると、今日のことが思い出される。色んなことがあったけど、いい日だった。受検はないけど、こんな日がずっと続けばいいのにな。そんな叶うはずのない願いと共に、僕の意識は落ちた。

updatedupdated2024-03-212024-03-21