引き抜くところまではできたが、点滴を固定していたバンドがうまく外せないでいると、親父がさっと外してくれた。そして、僕の腕を見ながら言った。
「あと十分ていどかな」
あと十分。それが僕のタイムリミットだ。正直足りるか怪しいが、やってみるしかない。
歯を食いしばってベッドから起き上がろうとした。しかし、足の力が足りなくて、しゃがみそうになったところを、親父が肩を貸してくれた。親父の肩を借りながら歩く感覚を思い出していると、親父は何やらポケットから薬を出して渡してきた。
「これを飲めば何とか動けるようになるし、多少は時間が伸びるかもな。」
見覚えのない二つの錠剤を僕の右手の前に差し出した。その薬をひったくるように二錠ともとって口に放り込む。飲んだことのない強い苦みのある薬だった。その苦さが、返って僕の体をみなぎらせてくれる。
何とか親父の形無しで歩けるようになると、ふらふらしながらも僕は病室を後にした。親父は病室を出ていく僕に向かって
「屋上だと思うぞ」
と言い残した。
見慣れた病棟のはずなのに、今はやけに広く大きく感じる。廊下の末端まで歩くことすらできないんじゃないかという不安感が襲う。それでも、壁にある手すりを頼りに、エレベーターのあるほうに歩いていく。
運のいいことに、誰にも会うことなくエレベーターまでたどり着いた。いや、もしかしたらあいつがこの階に人が来ないように手配してくれていたのかもしれない。
エレベーターの上向き矢印を指で押してみた。しかし、力が足りないのか、ボタンが反応してくれない。仕方なく、握りこぶしを作って体重をかけて押すと、ようやくオレンジのランプが付いた。ほっとしながらエレベーターが来るのを待つ。
ふと振り返ってみたが、病室から親父が出てくる気配はなかった。まだ何かあの病室でやっているのだろうか。それとも、一人で泣いているんだろうか。もう一度だけちゃんと顔を合わせたいと祈った。
ちょうどその時、エレベーターの到着を知らせる音がした。後ろ髪をひかれる思いを振り払って、開いたエレベーターの扉に向かって歩を進め、乗り込んだ。病棟のエレベーターは中が広く、このままダイノジに倒れこみたいという本能をかみ殺して、最上階のボタンを押す。
少し目を閉じて、これからやることだけを考える。あいつほど頭はよくないから、すべてを予測することはできないけど、せめて伝えたい言葉だけでも決めておく。
最上階の到着を知らせる音が耳に入った。パッと目を開けると、そこは屋上階の一つ下の階だった。僕はそこでエレベーターを後にして、すぐ右にある非常階段の扉に体重をかける。古びた金属がこすれる嫌な音がしたが、なんとか人一人通れるまで開けると、扉と壁の間をすり抜けた。外は日がだいぶ傾いていて、冷たい風が僕のそばを駆け抜けた。
非常階段を前にして、僕は足が震えて動かなくなってしまった。隙間の空いている金属製の階段。しかも、充分な壁はなく、手すりだけが取り付けられている。これを歩いて渡ることができるだろうか。それとも……
頭を左右に振ってもう一度階段を凝視する。さっき薬も飲んだし、これぐらいの階段はなんてことないと言い聞かせて、一段目に足を置く。震えながらも、手すりをつかんで体を引き寄せるようにすれば何とか登れそうだ。
たった一階だけど、病院だからか段数が30段近くある。8段置きに折り返し、ようやく最後の折り返しをすると、屋上の風景が目に入った。
初めて見る病院の屋上。人の背の高さぐらいある柵が四隅まで取り付けられている。その四隅のうち、僕から少し遠いところに二人の人影が見えた。黄昏時の名の通り、そこにいるのが目視では確認できなかったが、誰かは明白だった。
最後の力を振り絞るように、さっきよりもはやい速度で階段を上ると、その音に気が付いたように人影のうち一つが僕に駆け寄ってくるのが見えた。僕が屋上にたどり着くと同時に、少女は僕に飛び込んできた。
「お兄ちゃん!!」
「椿姫、ごめんね」
僕がそう言うと、椿姫は僕の背中を強くたたいて、僕の病院服を涙と鼻水で汚しながら言った。
「お兄ちゃんの嘘つき!!」
「ごめん」
彼女にされるがまま、僕はひたすらたたかれ続けた。たたかれるたびに心臓が飛び跳ねる思いをしながらも、僕の言葉を聞いてくれるまで待った。
少し経つと、椿姫はたたくのをやめてただ抱き着いているだけになった。僕は椿姫の頭をなでながら優しく言葉をかけた。
「ありがとう、僕の従妹の椿姫。」
そこまで言うと、僕の体から急激に力が抜けた。頑張って伝えたつもりだったけど、椿姫の様子は特に変わらなかったのが少し残念だったけど、僕はすべてをあきらめて目を閉じた。
しかし、僕の体は倒れることがなかった。不思議に思って目を開けると、椿姫が僕のことを抱きしめ続けていた。ただ、もう泣いていなかった。僕が目を開けたのを確認すると、少し笑いながら言った。
「翔さん。ちゃんと気づいてくれたんですね」
それは、あどけなさの抜けた整然とした椿姫の声だった。とっさに僕は聞いてしまった。
「いつもの椿姫の戻ったのかな?」
そういうと、椿姫は手を放して、自分の胸に手を当ててさみしそうに言った。
「彼女はもういなくなったみたいです。さっき、満足した様子で私の心の中から離れていきました。」
「そうか」
僕にとって、あどけない椿姫がいなくなることはいいことのように考えていたけど、彼女にとっては大切な自分を一人失ってしまったんだから、さみしいのは当然だろう。僕は彼女の頭を少し撫でた。椿姫は嬉しそうに僕の手を感じていた。
「この手だったんですよ」
椿姫は嬉しそうに言った。
「頭をなでられた時に感じたんです。この手はお兄ちゃんの手なんだなって気が付いたんです。そしたら、わがままな私がお兄ちゃんの前に出たがってしまいました。」
そういうことだったのか。初めて頭をなでた時の反応や、頭をなでられることにこだわった理由がようやく理解できた。僕の中でも、自然と彼女の頭をなでてしまったのは、きっと頭をなでることに慣れていたんだろう。
「気が付くのが遅すぎますよ」
そういうと、急に椿姫は僕に飛びついてきた。さすがに体に力がなかった僕は、そのまま後ろに倒れそうになった。しかし
「へ?」
急に体が倒れることはなく、ゆっくりと僕の体は背中から地面に着いた。一瞬何が起きたのかわからなかった。僕の隣に座った椿姫は僕に諭すように言った。
「もう疲れているのが見えましたから、強引に寝かせました。少し楽にしててください」
そういわれて、僕は急にこわばっていたからだから力を抜こうとした。しかし、力を抜きすぎたら、意識まで抜け落ちてしまいそうだったので、僕は少し力を出して首だけは傾けた。
椿姫は遠くの風景を眺めながら言った。
「私にとって、お兄ちゃんは大切な存在でした。子供だった頃の私と一緒に遊んでくれましたし、転んだら頭をなでてくれました。でも、ぱたりと会う機会がなくなったんです。」
夕景を眺める椿姫の横顔は美しかった。思わず見とれてしまいそうなほどに。
「それから、私はお父さんになつきました。優しくて背中の大きなお父さんでした。でも、私が中学一年生の時に天国に行ってしまいました。まるで運命に操られたように、私が好きな人は離れて行ってしまうんですよ。」
急に僕の視界が椿姫になった。
「せっかく再開できたのに、やっと気づいてもらえたのに…」
僕の頬に大粒の涙がこぼれてきた。僕がこぼしたものではない涙は、僕の頬を流れては落ちていった。
「なんでいなくなっちゃうんですか!!」
泣き叫ぶ椿姫の声が夕景に反響した。何度も何度も僕の鼓膜を揺らした。僕は精いっぱいの声を振り絞った。
「ごめんね」
その声はよわくもt 椿姫の耳には届いた。少し名金田椿姫は、そっぽを向いていった。
「いいですよ。いなくなる人に起こっても仕方ないですからね。そのかわり、私の言葉、聞いてくれますか」
「もちろん」
僕は即答した。すると、椿姫は照れたように頬を赤らめていった。
「私、翔さんのことが大好きなんです。だから、何回か子供のふりして甘えたんですよ。気が付いてないでしょうけど。」
椿姫の気持ちの告白。僕も自分の気持ちを素直に答えた。
「僕も好きだよ。」
椿姫の言う好きと僕の言う好きは違うかもしれない。けれど、好きという気持ちは同じだ。それに、僕は何回も椿姫にドキドキさせられた。あの気持ちを好きと言わずして何と言葉にすればいいんだ。
「そういえばしたことないですね」
急に僕の手に小さなぬくもりが伝わった。見ると、椿姫が僕の右手を握っていた。一本ずつ指を絡める恋人つなぎで。
「暖かいね」
「そうですね」
二人して照れ臭くなって、少し沈黙していた。それはそれでいいけど、僕の中に少しさびしさが残っていた。そんな時だった。
ピピッ
タイマーの音がどこかでなった。それと同時に、二人の足音が近づいてくる。それは
「よかったな翔」
「二人とも、よかったわね」
僕の両親だった。二人の声を聴くと、僕は首を地面につけて完全に寝る姿勢になった。そうすると、僕らの後ろ側に立っていた両親の顔が見えた。先にお母さんのほうを向くと、僕は伝えた。
「これまで本当にありがとう。橋上沙織としても、矢田部小百合としてもお世話になりました。」
僕の言葉に、お母さんは涙を流していた。本当は伝えたいことがもっといっぱいあるけど、もう一人伝えなくちゃいけない人物がいる。
「何もかも考えてくれてありがとうな。親父」
すると、少しだけ親父の目元に涙が浮かんだような気がした。こんな言葉じゃ伝えられないくらい迷惑もかけただろうし、傷つけたはずだ。それでも最後まで面倒を見てくれた親父には感謝しかなかった。
両親は僕の左手側に来ると、お母さんが僕の手を握り親父は僕の顔の横に座った。そして、僕に聞いた。
「このひと月の間、翔は幸せだったか?」
その言葉に、僕のひと月の間の記憶がよみがえる。
親父が急に見舞いに来た時。知らない家に行って居候生活が始まったとき。椿姫に急に勉強の相談をされて、頭をなでてあげた時。椿姫と一緒に参考書を買った時。そして、椿姫を抱きしめた時。
思い返せば、ずっと椿姫の思いでしかない。けれど、その思い出を飾ってくれたのはお母さんで、作ってくれたのはきっと親父だ。
全力で笑みを作りながら答える。
「最高に幸せなひと月だったよ」
「じゃあ、家族で幸せ作戦は成功だな。母さん」
そういうと、親父はお母さんの肩に手を置いた。笑っているようだったけど、親父のあごから光るものが落ちたような気がした。
少し首を傾けてみると、大きな夕焼けが地域を飲み込んでいた。雲は薄紫に輝き、空は真っ赤に燃え、太陽は金色に照り輝き、僕らを包み込んだ。
僕が夕景に見とれているのに気が付くと、ほかの三人も夕焼けを眺めて息をのんだ。このまま世界が崩壊しても、惜しくはないと言えるほどきれいな夕焼けだった。
精一杯夕焼けを目に焼き付けると、三人に気づかれないように頭を地面につけた。
これが最後なんだな
全身がその終わりを告げていた。静かに僕が瞳を閉じると、僕の耳元にささやく声がした。
「これが命令です」
瞬間、僕の唇に柔らかい感触がした。マシュマロのようにふわふわした何かが僕の口をふさいでいた。その行為を察して、僕はされるがままにゆだねた。
すこしして、椿姫は唇を離した。心の満たされていくのを感じながら、三人にあふれんばかりの思いを口にした。
「ありがとう。」
三人の声が耳元で響いている。けれど、僕にはもうその言葉は聞き取れなかった。命の火が消え、冷たい闇の中に落ちていくのを感じながら、僕は幸せをかみしめた。
僕の魂が体から離れる寸前、闇の中でとある人物にあった。
「どうだった?」
と尋ねる"僕"に近づき、その肩に手を置いて
「幸せだったよ、ありがとな」
と言い残して、その場を離れた。振り返ることはしなかったが、“僕"が泣いている声がかすかに聞こえた。