情報を求めて

 ノックされたとの報を見ながら、その奥にいる人物を予想した。この家にいるのはたった三人なんだから、二択しかない。しかも、僕の部屋に入ってくるような人物はあの人だろう。そう思って、僕は戸を開けた。

 僕の予想とは裏腹に、ドアの奥に立っていたのは椿姫ではなかった。

「翔、ちょっとしたの部屋に降りてこれる?少し話がしたいのだけれど」

 暗がりに映る小百合さんはいつも以上にきれいに見える。京町美人のような風貌が感じられる。

 僕は驚生きながらも、小百合さんに言われたとおりに階段に向かう。途中で椿姫の部屋をのぞいたが、電気が消されていたから、起こさないように慎重に後にした。

 下の階に降りると、小百合さんが紅茶とお茶菓子を用意して待っていた。そういえ初めて椿姫の部屋に行った時にも同じように紅茶を出されたのを思い出し、情景を重ねた。

 小百合さんと対面する席に座る。いつもとは違う真剣な表情をしている小百合さんに驚かされた、優しい聖母の眼光から光がなくなったようだ。

 一口紅茶を飲んでから小百合さんは語りだした。

「翔君はどこまで知ってるのかしら?」

 言葉が詰まる質問だ。何を答えたらいいのだろうか。いや、何も答えないのが正解か。

 僕が答えないでいると、小百合さんは表情を変えていった。

「翔、隠さなくていいのよ」

 それはまさに、僕のお母さんの声だった。学校で問題があったとき、成績が良くなかったとき、僕がお母さんに相談できないでいるときに、よくこの声をかけられた。

 つまりお母さんが言いたいのはこういうことなんだろう。しかし、それを話してしまえばこの安定が崩れてしまうかもしれない。だから、僕はそれでも隠し通した。

「特に何も知らないですよ。居候させてもらってる身で詮索するほうが申し訳ないですからね」

 そういうと、小百合さんは期待外れと言わんとする顔でお茶菓子のクッキーを一枚口に放り込んだ。そして、紅茶を一口飲んでから、いつになく暗い声で言った。

「そうなのね。てっきりすでに知っているものだと思ってたわ」

 翔君も食べなさいと言われて、机にあったフィナンシェを一口食べた。焦がしバターのコクと深みが強く、紅茶を一口飲んだ。バターのコクと紅茶の香りはこの雰囲気には似合わないほど豊かのものだった。

 僕が飲み終えるのを見計らって小百合さんは語り始めた。

「何にも知らないなら、少しだけ話しておいたほうがいいかしらね。椿姫の心のことを」

 どこか寂しそうな、夕焼けを見つめるような表情をしてつづけた。

「前にも話したけど、椿姫は中学一年生の時にお父さんがなくなっているの。それは彼女にとって大きなショックを与えるものだった。まあ、年頃の少女にとっては当然のことよね。

 ただ、椿姫については私たちが悪いことをしたの。あの時は、お父さんの相続のことや葬儀のことで忙しかったし、何より椿姫はもう中学生だから大丈夫だと思ってた。それで、ちゃんと椿姫と向き合うきっかけになったのは、あの子が不登校になってからだったの。

 最初は忌引きの続きだと思ってた。相続関連の手続きで椿姫が一緒にいてくれると助かったし、学校に行かないのが当然のことのように思っていたの。けれども一週間、二週間と経っても椿姫は中学校に行こうとしなかったの。それで、ある日電話がかかってきたの。

 電話先は学校の先生だった。忌引きは開けているはずなのに全然中学校に来ていないことをそこで聞かされて、驚いていったん電話を切ってもらってから、椿姫に話しかけたの。学校に行かないのって。でもそれがよくなかった。」

 深いため息をついた。紅茶の水面が揺れるような気がした。

「安易にそれを聞いたせいで、椿姫はより閉じこもってしまったの。いわゆる引きこもり状態って感じね。でも、ご飯は一緒に食べてくれるし、勉強もちゃんとやっているようだったから、それ以上は聞かなかった。いや聞いてこれ以上引きこもられたら困るからしなかったの。

 それでも、だんだんと椿姫は部屋からでなくなった。私がいない間にゲーム機やケトル南下を自分の部屋に持ち込んで、自分の部屋だけでほとんど生活できるようにしたの。さすがはお父さんの娘って感じよね。」

 少し口角を挙げた小百合さんは、フィナンシェを取って一口かじった。さもおいしそうな表情をして、紅茶を飲んでから続きを離した。

「それでも、ネットや本で読んだ限り、顔を合わせてくれるだけ十分だと思ってたの。あれは、お父さんがなくなってからひと月近くたった時かしらね。

 椿姫が首をくくろうとしたの。」

 一瞬にして部屋が凍り付くほどに、小百合さんの声は冷たかった。知っていた話なのに、これほど緊張感を植え付けられた僕は、ただじっと小百合さんの話の続きを待つしかなかった。

「朝食を食べ終えた後、たまたま出勤がなくなって家で休んでいた時、急に椿姫の部屋から大きな音がした。焦って椿姫の部屋に入ると、首にビニールテープを巻き付けた椿姫が倒れていたの、心臓をつかまれるような気分がしたらしいわ。

 藁をもすがる気持ちで、とりあえず救急車を呼んだわ。それから、救急隊員に言われたとおりに、脈をとったり状態を調べたの。奇跡的に失敗だったみたいで、普通に脈はあったし、落ちた時の当たり所もそれほど悪くなかったから、意識がなかっただけだったの。

 それから救急隊員が椿姫のことを救急車に乗せて病院に向かったの、たいしたことはないから、数日入院すれば済むって言われて、あれほど安堵したことはほかにないと思うわ 。けれども、今度は私は椿姫に合わせる顔がないと思ってしまって、すぐには会いに行けなかったの。

 ちらっとだけ病室のドアを開けて覗いてみたら、椿姫は見たこともない暗い表情をしていたわ。それが、何の絶望によるものなのかわからなかったけれど、その表情を見てとりあえず近寄ってみたの。何かしてあげたいと思ってね。まあ、どうなったかは予想できると思うけどね」

 自虐的な笑みを浮かべながら、フィナンシェをかじる。きっと拒絶されたんだろうと推測しつつも、話の続きが気になるので、無言で小百合さんをせかした。焦って紅茶を飲みほしてから小百合さんは続けた。

「それで、そのことを医者に伝えたらカウンセリングを行うことになったの。まずは椿姫の心の状態を知るところから始まったわ。

 最初のほうは本当に何もしゃべってくれなかったけど、ある時急に落ち着いて話をしてくれるようになったの。それからとんとん拍子に調子がよくなって、二週間程度で痰飲したわ。

 家に帰ってからもちゃんと観察するように言われてたから、毎日椿姫の様子を日記に書いていたのだけれど、本当に何も問題がなかったのよ。それに、家に帰ってから少しして、中学校に行くって言いだしたの。驚いたけど、安心したわ。」

 話の終わりが見えてきた僕は、ようやく手元に残っていたフィナンシェの残りを口に含んだ。今度は紅茶で飲み干さず、その味わいを楽しんでいた。僕が飲み込むのを待ってから、小百合さんは語りだした。

「学校に通い始めてからも、落ち着いた様子ですぐに学校にもなじんだようだった。ただ、前に比べて敬語を使う回数が増えたり、少し落ち着いた雰囲気を醸していたのだけれど、きっと大人になったんだろうと思ってた。

 でも違ったの。あの子はまだ子供のままだった。ただ子供のままならそれでもいいんだけれどね。あの子の心は私たちが考えている以上に複雑になっていたの。」

 ふぅっとため息が漏れる。やはりあの子は一筋縄では行かなかったのだろうけど、ここまで大変な子だったのか。

「普通の休日、お父さんの部屋に用があって入ったら、そこに椿姫がいたの。まあ、まだお父さんのことを愛しているんだろう程度のものだと思っていたから、かわいいなぁと思ってた。けれど、そんな単純なことじゃなかった。

 小百合に気が付いて話しかけた時、最初はすごい幼い声を出したの。小学生が甘えるときに使うあの猫なで声のような感じね。そんな声をっ出している姿を見たことがなかったから驚いたわ。それに、その時の椿姫の顔はすごく幼く見えたわ。

 呆けている間に、椿姫の声は大きく変わったの。急にいつもの大人びた様子になり、表情も急に落ち着いて普通の椿姫に戻ったの。まるで幼い椿姫は存在しなかったかのように思ったわ。

 こんなことがそれから何回も起こったの。それでようやく気が付いたの。あの子の中にはまだ子供の椿姫が存在しているけれど、大人な椿姫がそれを隠してしまっているんだとね。だからある意味では二面性があるといえるわね。これが、カウンセリングの最中に気が付いていればこんなことにはならなかったのかも知れないけれど、もう手遅れだったの。」

 もう一度、小百合さんは大きくため息をついた。深く深く深呼吸をして過去を悔いているようだった。

 僕はようやく椿姫の不可解な行動の理由が少しわかった。もしかしたら、椿姫は父親と僕のことを重ねているのかもしれない。そのために、時々僕に対して猫なで声で甘えているのだ。あの極端な変容は、二面性があるからだったのか。

 僕の様子を見て小百合さんは、察しがついたらしい。

「もしかしたら、もうすでに椿姫の幼い部分を見たことがあるのかもしれないわね。そしたらもっと困るんだけど。」

「もっと困る、ですか?」

 予想外の発言に、僕は考えるより先に口が動いていた。

「そうよ。だって翔君もそこまで余命がないんでしょう?幼い姿を見せるほどに信頼している人がまたいなくなったら、あの子はまたあの時みたいになるかもしれないじゃない。」

 僕は返す言葉が見当たらなかった。困惑と申し訳なさが織り交じったようで、口を開けないでいると、小百合さんが急に優しい声を出した。

「まあ、それだけ椿姫と仲良くしてくれたんだから、気にしなくていいわよ。それに、知らなかったんだから仕方ないわ。」

 そろそろ終わりにしましょ、と言って、机の上のお茶菓子たちを引き上げ始めた。僕は焦ってカップに残った紅茶を飲み干すと、お茶菓子の片づけを手伝った。その中で、一つだけクッキーをポケットにしまった。

 片づけが終わると、二人して二階に向かった。僕の部屋と小百合さんの部屋は方向が違うので、別れるときに、小百合さんに声をかけられてた。

「これは、私からの助言だけどね。一度自分の家を見に行ったほうがいいと思うわよ」

僕が答える前に、小百合さんは部屋に帰ってしまった。僕は暗い廊下に取り残されないように、自分の部屋にかけこんだ。

 とりあえずいつもの勉強机の前に座ると、さっきの話を思い出した。

 まず、椿姫は幼い椿姫と大人な椿姫が二人いて、僕に甘えているのは幼い椿姫らしい。もしかしたら、幼い椿姫は妄想癖のように、お父さんのことを考えたり、僕のことをお兄ちゃんとして意識しているのかもしれない。そう考えれば、彼女の異様に甘えてくる様子の理由が少し紐解ける。

 少し意外だったのは椿姫の話が正確だったことだ。自殺未遂前後の話はもっと記憶にバイアスがかかっているものだと思っていたけれど、小百合さん、いやお母さんから聞いた話とほぼ一致している事は予想外だった。それだけ、大人な椿姫はその時のことを客観的に理解しているということなんだろう。

 実際、椿姫は自分の二面性に気が付いているのだろうか。さっきの話を聞く限りは無意識のうちにあるように受け取れた。それに、実際に僕とかかわっている時にも、二つの人格が行き来しているような瞬間はあるけれど、お互いを理解しているようなそぶりは見たことがない。

 いや、一回だけある。さっき急に抱き着いてきたときは大人な椿姫だったけれど、、行動は幼い椿姫のままだった。二面が混ざり合ったような行動だと思う。

 頭がぐるぐると回り、勉強それどころではなくなってしまったので、こういう時はブログを書くことにする。いつものようにパソコンを開いてブログの投稿画面を開いて、今日の記事を書こうとした。しかし

「どこまで書こうか」

 僕はそこで書く手を止めてしまった。いつもは自分のことで悩んでばかりだったから、すべてをネット上に乗せても何の抵抗もなかった。しかし、今回は椿姫の内容が主になっているから、下手に後悔したくない。

 悩んだ末に、僕はたった一言だけブログを書いた。

「残りの人生は人のために」

 これが僕の答えだ。投稿の作業を済ませると、パソコンを閉じて勉強計画帳を開いた。一応今日の分を埋めると、明日の内容は空白のまま机にしまった。

 ちょうど終電が通り過ぎる音が聞こえた。携帯だけ持ってベッドに飛び込むと、アラームだけセットして眠りに落ちた。考えるべきことはたくさんあるはずだけど、今日は熟睡できる気がしたのでそのまま睡魔に身をゆだねた。

updatedupdated2024-11-072024-11-07