懐かしいリビングの香り。解像度は日に日に低くなっているけれど、僕が住んでいた家のにおいだ。そして、それは僕のお母さんの好きな匂いなんだ。
いつものように水を飲み終えて、勉強部屋に戻ろうとしたとき、玄関の扉が開いた。出てこないでくれと望んでいても、やはりその男の声は聞こえてきた。
「翔、いるか」
もう僕の頭の中ではあの家の間取りは忘れてしまったのだろうか。玄関の位置も正しくないし、声が聞こえる方向もあっていない。けれど、これから起こることだけは明確に分かっていた。
「翔、お父さんとお母さんから報告があるんだ。だからリビングで少し話を聞いてくれないか。」
僕のいるリビングの部屋に、へらへら笑っているあいつが入ってきた。そしてその隣には、
人間の悲しみを具現化したような異形が立っていた。それは明らかにお母さんだけれども、もう僕の頭はお母さんを思い出せないのかもしれない。人間の記憶能力が恨めしい。
あいつが僕の前の席に座ると、口を開く。その前にどうしても声を出したいけれども、金縛りにあったみたいに声が出ない。聞きたくなくても入ってきてしまうあいつの声。
「父さんたち、離婚することになったんだ。」
歯をかみしめながら、あいつの言葉を頭から追い出そうとする。わずかに聞こえるのは、現実でなっているであろう僕の歯ぎしりの音だけ。今のうちに覚めてくれと願っても、夢は終わらない。
「それで、離婚したらこの家は売ってしまおうと思うんだ。どうせ母さんはこの家を使わないし、俺はこの家には愛情もないからな。それで…」
「うわっ」
急に視界が真っ暗になった。解像度も数倍に跳ね上がって、これが現実なんだと気づく。異常なほどの寝汗と、涙にぬれた枕。一度トイレに行ったらもう一度寝ることにしよう。
どうせ次もそう長くはねられない。僕はきっと死ぬまでこの夢しか見れないだろうから。