最小距離のお隣さん

 どうしようかな。

 いつもならこんな風に授業を抜け出して部活に来ることなんてないんだけど、今日は禁忌を犯してしまった。なんでこんなことをしているかと言えば、今日雅君に教える内容は、私にとっても教えるのはかなり難しい内容だからだ。正直に言って、私の説明がいつものようにちゃんと伝わるとは思えない。なにせ、今日教えるのは高校の数学でも一二を争う難所の一つ、微分なんだから。

 どうやって説明したら彼にちゃんと伝えられるんだろう。簡単な微分だけだったら、彼は文句を言いそうだけど、誤魔化す手もありだったんだけどね。ただ微分を教えるだけじゃなくて、その先が残ってるんだから、丁寧に教えないといけないんだよね。猫の手じゃ足りないから、先輩の手でも借りたい気分だよ。

「失礼します」

 と、いつもに比べると少し明るめの雅君の声が、オイラー部の部室に響き渡る。六限からずっと部室の窓際の机に、高等微積分の本とノートを並べて勉強していたら、時間がどれだけ経ったかなんて、まったく気にしていなかった。あれっと思って時計を見ると、すでに六限どころかホームルームも終わっている時間になっていた。ずいぶんと長い間考えていたことになる。

「こんにちわ、雅君。」

 と後ろ向きに彼にあいさつをすると、席を立って、いつもの壇上に戻る。

はぁ

 と一息ため息をついてから、黒板に書かれている文字を眺めた。足りないものの欄で、唯一$e$にだけ訂正線が引かれていない。逆に考えればここまでよく来たっていうこともできるけど、最後の$e$はなかなかの曲者だし、隠されているものも残っている。だから、まだあと三分の一ぐらいは残ってるんだよね。

「大丈夫ですか?先輩」

 と、心配そうに雅君が声をかけてくれた。私は彼に心配させないようにと思って

「大丈夫だよ」

 と返した。一瞬の沈黙と、隔たりが雅君との間に生まれた気がした。それをたたき割るように、私は話を始める。

「早速だけど、今日の話に入ろうか。今日は前回に増して難しいというか理解しにくい部分が多いから、気合入れて頑張ろうか。」

 というと、雅君は前回のことを思い出して、すこしおびえるような身振りをした。前回にもましてっていうのは言い過ぎだったかな。まあ、テイラー展開とかを次回に回せばそんなに大変でもないかな。

 雅君がノートと筆記具を取り出し終えたのを確認すると、私は話をつづけた。

「さて、私たちもこの数週間で結構いろんなことをやったけど、とうとうあと少しの内容で最後だからね。ほら、足りないものリストも、残りはあの$e$だけになったね」

 と、彼を励ますために、あえて比重を考えずに言った。案の定彼は、残りの二つ三つの内容がこれまでとおんなじだと思って、一気に明るくなった。

「確かに、指数法則や三角関数、複素数についてもやりましたからね。それで、残りは何をやるんですか?」

 私は、彼のその勢いに任せて、今日の話題を吹っ掛けた。

「今日は微分をやるよ。内容は知らなくても、名前ぐらい聞いたことあるんじゃないかな。」

「確かに名前だけなら聞いたことあります。」

 と、私がホワイトボードに書くよりも早く彼は返事をした。なんか急に彼との精神的距離が縮まった気がする。まあ、部員間の距離が近いのはいいことなんだけどね。急いでホワイトボードを描かなくちゃいけないのは、いやだなぁ。

 取り敢えず、微分って題名だけ書いておくと、私は話の続きをする。

「微分っていうのは、ざっくり説明するなら、曲線の関数の接線を求める方法だよ。例えばで言うと、中学三年生や高校一年生でこんなグラフをやらなかった?」

 というと、私はホワイトボードに見飽きたあの放物線を描いた。と言っても、放物線という割には上向きにものが落ちていくように見えるグラフだけど。

 いつも下手な図しか書けないけど、今日はある程度綺麗になったんじゃないかな。そしたら、また話を続けなくては。

「これは$y\propto x^2$の関数の一つで$y=x^2$っていう関数だね。中学の時に、この関数上の二点を通る直線の公式って習った?」

 と、彼に問いかけながら、私が彼に問うてる問題も、習ったのが二年も前なんだなって痛感した。今の私だったら、すぐに微分の公式で考えてしまうけど、昔の私は変な公式を使って解いていたんだろうか。そんな私の自問にこたえるように、彼はいつもの声で答えた。

「二点のx座標をa,bと置いて、$y=(a+b)x-ab$で出せるって習いました。」

 その回答に、私は深くうなずいた。あの頃はきっと何の疑問も持たないでこの式を使っていたのかな。何時かに先輩から教えてもらった方法を継承するかのように、彼との講義を進めていく。

「じゃあ、この式を使って、このグラフの接線を考えてみようか。って言っても、そもそも接線ってなんだろうっていうところから考えていこうか。」

 と言いながら、ホワイトボードの放物線の下に、接線とはって書いて、視線で彼に「接線ってなんだと思う?」って問いかけてみた。彼は、私の視線から理解してくれたらしく、

「接線は、一点だけで接する直線じゃないですか?」

 と、いつもよりも自信のありそうな声で答えてくれた。私は、彼の言葉をそのままホワイトボードに書きながら、さらに話を進める。

「その通りだよ。接線は曲線と一点のみを共有する直線だね。ということは、その一点と傾きが等しくなっているっていうことは分かる?」

 と聞くと、背中越しに

「微妙です」

 と聞こえてきたので、即席で適当な図を描いてみる。

「これは、$y=x^2$の$(x,y)=(1,1)$の点における接線なんだ。限りなく、この二つの線が、$(1,1)$では傾きが近づいているのが分かるでしょ。こんな風に、接線は傾きが等しくて、一点での未曲線と交わるっていう性質を持つんだ。じゃあ、実際にどうやってさっきの式を使うか考えていこうか。ここから先は少し屁理屈みたいなところが出てくるけど、どうにか乗り越えていこう。」

 というと、彼が

「おー」

 と気の抜けた炭酸みたいな声を出した。

 ここらか先は理屈と言えば理屈的、屁理屈と言えばそこまで見たいな話が続くんだ。完全な理論を信じる彼には、確実に対照的な話になってしまうと思う。まあ、地道に進んでいくしかないかな、第一峠はすぐそこだ。

「さっきの式を使うためには、$y=x^2$っていう条件のほかに何がいるんだっけ。」

 唐突に質問を繰り出す。それでも、彼はがむしゃらにでもくっついてきてくれるんだ。

「異なる二点のx座標が必要です。」

 その答えを聞いた私は、やっぱり彼は真面目なんだなぁっていう感想を抱きながらも、ここからの話をどうしようか、真剣に悩み始めた。理解していないんだったら、適当にごまかしてしまうこともできたけど、分かっているならしょうがない。真っ向からすべて教えなきゃいけないって思うと、少しつらいね。

「そうだね。本当は二点の座標が欲しいんだけど、もし接線だったら、一点接してないから座標の数が足りないんだ。でも、接線に近い直線なら書くことができるよね。例えば、この点を通って、かつ曲線上の点を通る線を書いてみると。」

 と言って、さっきのグラフに大量の直線を追加した。  わかりにくいけど、一つの規則性をもって。

「今書いた図は、(1,1)を通るのと、この曲線の右側で交わる直線なんだけど、見ていて気が付くことある?」

 すると、雅君は私が最初に書いた図と比較してみながら

「(1,1)に近付くほど、接線に近い直線になっています。」

 と言った。さすがだと思うなぁ。私だったら多分先輩が答えてくれるまで、ずっと黙ってたと思うからね。それに、洞察力に優れていて、羨ましいなぁ。なんて言ってられないか。話を進めないと。

「そうだよね。同じようにどんどん(1,1)に近い点と結んで行ったら、いずれ接線に限りなく近づくでしょ。そして、(1,1)と隣の点を結ぶと、接線と等しくなるっていう風に考えるんだ。ちょっと無理やり感があるけど、実際にやってみよう。」

 といって、彼の顔を見ると、明らかに不満そうな顔をしていた。まあ、そうなっちゃうよね。心中で彼に何度も謝りながらも、ホワイトボードを書き進める。

$$y=x^2において、x座標aとbを通る直線の公式 y=(a+b)x-abより$$ $$y=(1+1+h)x-1(1+h) hを限りなく0に近づけて、0とみなす$$ $$y=2x-1$$

 ここまで書くと、もう一度彼の顔に向き直る。すると、そこには新世界でも見たかのような顔をしている彼の顔があった。ちょっと動揺しつつも、考えていた台本通りの講義をする。

「こんな風に、hっていう文字を使うんだけど、そのhを限りなく0に近づけることで、0とみなしてしまうんだ。これも、ちゃんと数学記号があるから、それで教えておこうかな」

 というと、見慣れた記号列を黒板に書く。 $$ \lim_{d \to 0} f(x)=(1+1+d)x-1(1+d)$$

「この記号の意味は、今言った通りなんだけど、こうやって記号を使ったほうが見やすいでしょ。それで、さっきから急に目つきが変わったけど、何かに気が付いたの?」

 と聞くと、彼は今にも心臓が口から飛び出しそうな勢いでしゃべり始めた。

「先輩が書いていた数式の意味が、すごく新しい発想のですけど、理解しやすくて、驚いていただけです。それと、僕なりに考えてみたんですけど、接線は、こんな風に求められるってことですか?」

 というと、私にプリントの一番下に書かれた数式を見せてくれた。

$$y=2a-a^2$$

 その数式を読みながら、私は彼に答えた。

「そうだね、今やった曲線の接線だったら、どんな点でもこの数式で求められるよ。でも、もう一歩踏み出してみたくない?どんな曲線でも使いたくない?」

 というと、彼は目が釘付けになるような視線を私に送りながら

「はい!!」

 と答えてくれた。時計を見れば、もう時間が少ない。ちょっと急ぎ目に話をしちゃおうかな。

「さっきは、極限まで近い点っていうのを使って考えたから、それとおんなじ考え方を他の曲線にも適用できるように、さっきの式を変形させよう。」

 というと、またホワイトボードにいろいろ書きこむ。今日はホワイトボードをかなり使ってるね。いい証拠なのかはわからないけど。

$$g(x)=x^2$$ $$\lim_{h \to 0} f(x)=(1+1+h)x-1(1+h)$$ $$=\lim_{h \to 0}f(x)=\frac{g(a+h)-g(a)}{h}x-g(a) $$ 二点間を通る直線の公式

ここまで書けば、多分伝わるんじゃないかな。

「この式は、変形させ経ってよりも、ただの二点を結ぶときの直線を求めるときに、$\frac{yの変化量}{xの変化量}$で傾きを出して、最後に高さを調整する式に当てはめた感じだと思えばいいよ。」

 すると、彼が私の発言を補助するように答えてくれた。

「つまり、求めたい接線の通る点と、そのお隣さんを通る直線を引けば、接線ができるってことですね。まるで夢みたいです。」

 その言葉に、私は講義モードから語りモードにシフトさせられてしまった。

「そうだね。数学はいつでも私たちに夢を見させてくれる。合理的、つまり数学に当てはめられた公理を逸脱しない夢なら、どんな夢でも見せてくれるんだ。存在しない数だって、本来描けない接線だって、数学が壊れない夢ならなんでも見れるんだ。」

 というと、二人の間に天の川が流れた。二人を隔てるものというより、ふてゃりをつなぐ存在として。天の川を超えて、彼の元へ声を送る。

「実は微分という計算方法を考え出したのは、かの有名な物理学者ニュートン先生なんだ。最初は放物線を描く大砲の速度を求めるために考えたんだって。これも夢みたいな話だよね。常に変化し続ける速度の、一瞬だけを切り取るなんて、人間にはできないもの。」

 今彼は何を考えているんだろう。顔を覗き込んで確認したいけど、それは先輩としてもやりすぎな気がしたから、自制した。

キーンコーンカーンコーン

 チャイムの音に、ぼうっとしていた私たちは他tき起こされる。急いで時計を確認すると、すでに部活の時間が終わるチャイムだった。私は笑って彼に

「一緒に怒られにいこっか」

 というと、彼も笑って

「行きましょう。先輩」

 と言ってくれた。その後、ゆったりと荷物の準備をして正門に向かうと、生徒指導の先生につかまって、こっぴどく叱られてしまった。それでも、私と雅君は嫌な気は起きなかった。心の中が数学で満たされて、幸せだったから。

updatedupdated2024-11-072024-11-07