昨日はやっちゃったなぁ
と、一人でため息をつきながら、自分の研究に明け暮れていた。今日は、何故か雅君が来るのが遅い。昨日なんて私よりも早く来ていたのに、今日は部活の時間が始まって、十五分もしたのにまだ来ていない。休みなのかも。
まあ、彼がいなければいないなりに、私は私の研究をすすめるだけ。幸い私の研究はまだ私の力量の範囲内だ。だから、先輩とか先生に頼る必要はないから、それなりに自由で楽しくできる分野。まあ、この分野は結構特殊だから、ほかの分野への応用は難しいし、複雑だから人が寄り付かないんだけど。
なんて考えていたら、誰かがこの教室の扉を開けて入ってきた音がした。窓の方を向ていて私は、ノートから目を話して振り返ると、丁度雅君と目が合った。
「こんにちは」
と、挨拶をしてあげると、
「こんにちは。遅れました。」
と、雅君も返してくれた。雅君はいつもの席に、私は教壇のいつもの位置に戻る。昨日ぶりなんだけど、すこしだけ久しく感じてしまう。今日は何の話からしようかな。まずは例の宿題の件をそろそろやらないとかな。
と思ったら、雅君が一枚のプリントをもって私のほうに歩いてきた。何のプリントだろう。ちょっと小首をかしげながら、彼の顔を見ると、彼は
「宿題終わりました。昨日ほぼ徹夜で考えていたら答えが出ました。」
と、自信満々に言った。私は彼から宿題の紙を受け取って、彼の答案に目を通した。一枚の紙に、何度も消しゴムで消した跡が残っている。相当試行錯誤したんだっていうのが、伝わってきた。これだったらもう少し誘導しておいた方がよかったかもしれない。
それはそうと、回答の方はやっぱり彼らしい一切の抜かりがない回答だった。計算ミスもなければ、証明でとやかく言えるような部分もない。論理的なアスファルトで舗装された道を歩くような証明。多分私でも書くのが難しいんじゃないかな。まあ、彼らしい愚直な解き方だから、もう少し効率化はできるかもしれないけど。
私は、彼に宿題のプリントを返すと
「よく頑張ったね。あれだけ誘導が少ない問題だから、もっと悩むと思ったよ。丁度今日使おうと思っていたから、タイミングもばっちりだよ。」
そういうと、彼はにっこり笑って、スキップに似たステップで自分の席に帰っていった。なんというか、ほほえましい光景。
それはさておき、今日は複素数の計算っていう分野だね。私の研究に直結するし、楽しい分野なんだけど、理解が難しいかもしれない。でも、武器は持ってるから、使いこなすだけ。そう意気込んで、彼に話しかける。
「じゃあ、今日は複素数の計算だね。でもその前に、実数の計算について少し確認しようか。」
そういうと、ホワイトボードに振り返って、簡単な数直線を黒板に書いた。一応-5~5までは数字を振っておいた。書き終えると、また彼の方を向いて
「実数の足し算の時は、数直線的にはどうなるかな?」
と、ちょっと嫌な問題を出す。特段難しいわけじゃないんだけど、答えにくいタイプの問題。それをわかって出してるから、雅君が今、全力で悩んでいるのもうなずける。そもそもこういう問題の出し方をしているのも悪いとは思うけど、本質を探るのは大切だからね。
何とか無理をして、雅君はいつもの声で答えてくれた。
「原点からの距離を足す、っていう感じですか…?」
と、無理に言葉を捻りだしたように。でも、その答えに、私は全力で答えてあげる。
「あながち間違ってないから安心して。少し違う部分もあるけど、大体言いたいことは分かるよ」
っていうと私は数直線に矢印を三つ書き足した。一つは原点から1に、 もう一つは原点から2に、最後の一つは2から3に。安易な図だけど、多分伝わるはず。
「雅君が思っているのは、こういう図だよね。これは、$2+1$をさっきの雅君が言っていたように表したものだよ。これなら、確かに符号がおんなじ場合はできるけどさ。異符号の場合はどうだろうね。」
と、あからさまに私は、異符号の足し算を意識するように言った。すると、彼はひらめいたといわんばかりの顔で答えた。
「向きはそのままに足すってことですね」
と、まれにみるあの楽しそうな顔で。その顔を見ると、私は少し安心する。何故かはわからないけど、なんとなく安心するんだ。と、彼が折角答えてくれたんだし、私も答えないとね
「うん、その解釈で正しいよ。こうやって書けばね」
というと、さっきの矢印を消して、今度は原点から-1に一本、原点から2に一本、最後に2から1に一本矢印を描いた。
そして、彼にの瞳を除きながら
「こういうことだよね。確かにこれなら足し算は説明が付くんだ。これをこのまま複素数に埋め込んでしまえばいいんだよ。」
というと、私はホワイトボードの方を無効とした。でも、彼の声に呼び止められた。
「つまり、向きはそのままに、原点からの距離を足すってことですか?」
と、今すぐ疑問に答えてほしいという声をしていた。私は、その声を聴いて、
「その通り。」
そういうと、私は彼にすべては答えずにホワイトボードに戻った。そして、複素数平面の簡易版を描いた。これも本当に便利だから、いつか小さいホワイトボードに残しておこうかな。いつも使う割に、綺麗に書けないからね。
大雑把な複素数平面に、bっていう第一象限上の点と、cっていう第三象限上の点を描いた。そして、その二点に向かって原点から矢印を描いた。もうちょっと矢印、ベクトルを分解したほうがいいかな。まあ、今はいいかな。
じゃあ、話を戻そう。
「今複素数平面上に二点、つまり複素数を二つ作ったんだね。この二点の和を求めるときに、どう計算したらいいと思う?」
と、雅君に聞いてみた。雅君がちょっと視線を外して、考え始めたのを見て、私は一つ彼に伝えた。
「この図に書いていいよ。」
と言って、彼を教壇の上に手招いた。すると、彼は壇上に上がって、ホワイトボード用のペンを握りしめながら、少しの間複素数平面を眺めていた。しばらくして、彼は思い立ったように図を描いた。点bから、「原点からcに引いた矢印」を書いた。
そして、書き終えると同時に
「こんな図で正しいですか?」
と、問うてきた。私は彼にそこそこの笑顔で
「うん。一旦席に戻っていいよ。」
って言った。すると、何故か彼はすこししょんぼりした顔で席に帰っていった。なるべく柔らかくいったはずだけど、ちょっと怖く聞こえちゃったかな。まあ、歩は進めなきゃ。
「雅君が書いてくれた図は、確かにあっているんだ。でも、私が言わなかったのが問題なんだけど、もうちょっといい書き方があるんだ。」
と言って、新しい矢印を書き込んでいく。これは、原点からの矢印を、二つのベクトルに分解したことに近いかな。
ここまで細かくすると、それはそれで見にくいかな。もうちょっときれいにしたいけど…。まあいいか。
図を描きながら、雅君に言う。
「複素数は、実数部分と虚数部分で別れるでしょ。それと同じで、xの要素とyyの要素に分解したほうが見やすいと思うんだ。」
そういいながら、さっきの足し算と同じように矢印を書き足していく。答えは変わらないんだけど。全部書き終えると、私は柏手を二回打って、雅君に問いかける。
「さて、これで複素数平面上での、矢印による足し算はできたね。じゃあ、これをどうやって式に表そうか。」
と聞くと、雅君は図を見ながら
「$(a+bi)+(c+di)=(a+c)+(b+d)i$です。」
と答えた。ちゃんと複素数平面上での計算が効いている見たいでよかった。
「正解。」
と、端的に言うと、私はホワイトボードに雅君が言ったとおりの数式を描いた。ちゃんと、複素数を実数部分と虚数部分に分けることにも慣れているみたいでよかった。
$$(a+bI)+(c+di)=(a+c)+(b+d)i$$
この式を見ると、何か一仕事をした気分になる。まあ、私からしたら当然の式ではあるんだけど、それでも、なかなか遠い道の先にある式のような気がする。終わりを示すように、ホワイトボードのその部分だけをペンで区切る。そして、また雅君に質問をする。
「これで複素数の和っていう分野は完成。さて、次の問題は何だと思う?」
すると、雅君はすこし楽しくなってきたのか、元気の答えてくれた。
「複素数の積です!!」
こうやってはきはき答えてくれると、教えてる側も楽しいね。まあ、そう思ってもらえるようにするのが教えてる側の仕事なんだけどね。
「じゃあ、さっきと同じように実数で考えてみようか。」
というと、ホワイトボードの新しい部分に数直線を描いた。さっきと同じように少しだけ数字を振っておく。
そこまで書いたら、また雅君に話を振る。
「実数の積は数直線上だとどうやって考えたらいいと思う?」
すると、彼はすぐに答えてくれた。
「原点からの距離をかければいいと思います。」
「向きは考えなくていいの?」
と、彼が答えを言った瞬間に、さらに質問を重ねてしまった。ちょっと早とちりしちゃったかな。まあ、それでも彼は答えてくれた。
「向きもかけます。」
と、私が彼の答えを遮るように質問したことに対して、少し怒っている感じがした。だから、私は彼を慰めるかのように返答した。
「そうだね。向きと距離っていう二つの観点が大切なんだ。じゃあ、最後に距離ってどうやって計算する?」
と聞いてみた。物事の本質を知っていれば、別の観点からでも共通視できる。それが数学のいいところであり、難しいところ。そういうところを聞く問題ばかりだから、雅君にはつらい思いをさせてるかな。まあ、強くなると思うから、頑張って。
そう願っていると、すこし考えた雅君は
「絶対値を使えばいいと思います。」
と答えてくれた。うん。私が見込んだレベルを超えてくる。
「そうだね。絶対値が距離になるよね。」
と言いながら、後ろのホワイトボードに数式を描く。新しい視点から絵を描くように。
$$実数=符号部分\times 絶対値部分$$ $$n\times m= 符号部分\times 符号部分\times |n|\times |m|$$
「実数の積はこんな風に分解して考えることができるんだ。じゃあ、今度は複素数の話にしよう。」
というと、さっきの複素数平面と同じものを描いた。あ、そう言えば結局数直線使わなかったね。まあ、頭の中でできるようになるのも大切だから、ほうっておこう。
「さあ、目標はこれをかけることだね。距離は簡単だね。三平方すれば、原点からの距離は出せるもん。でも、今の私達には、向きっていう武器が足りないんだ。それじゃあ、さっきの式が使えない。じゃあどうしたらいいと思う?」
と、雅君に聞くと
「向きを作ればいいと思います」
と、ちょっとふざけたように言った。多分本人としては適当に言った感じなんだと思うけど
「うん、そうしたいよね。だから、向きの概念を作ろう。」
そういうと、私はさっきの図に角度を書き足した。
「この矢印のx軸からの角度を、原点からの向きを使って、この複素数を新しい表し方にしたいんだ。さっきの実数はどうやって表したっけ?」
と、一方的にならないように、質問してみる。すると、雅君はちゃんと
「距離×向きでした。」
と、間髪入れずに答えてくれた。これぐらい返答が早いと助かるよね。じゃあ、また話を続けようか。
「そう。だから、複素数も距離と向きをかけるっていう風に書き表す方法があるんだ。一番簡単な書き方はこれかな。」
というと、ホワイトボードに$r\angle\theta (r=原点からの距離\theta =x軸との角度)$って書いた。そして、雅君の方を向くと、雅君は想定通りあっけにとられたっていう表情をして、何か質問したそうにしていたから、話を振ってあげた。
「雅君、これ見てどう思った?」
すると、雅君はこう答えてくれた。
「その式だと、虚数部分と実数部分に分けられないんじゃないですか?」
と、的確かつ着眼点が鋭い質問だった。でも、その質問に、私はにやりと笑った。そして、無言でホワイトボードの複素数平面に少し付け足した。
そこには、紛れもない直角三角形が洗われていた。それを見て雅君が気が付いているのか、はたまた感づいていないのかは、背中越しにはわからない。でも、どっちにしても私はニヤッと笑った。そして、下にさらに数式を描いた。
$$a+bi=r\angle\theta=r(cos(\theta))+ir(sin(\theta))=r(cos(\theta)+isin(\theta))$$
ここまで式を描いたら、雅君の方に向き直って、また話をした。
「こんな感じで、さっきの式からでも実部虚部に分けることができるんだ。多分、雅君的にこっちの式の方がすきそうだから、向きは$cos(\theta)+isin(\theta)$っていう式で考えていこうか。」
というと、雅君は天が落ちたかのように感動しながら
「ここで三角関数が出てくるんですね。それは…感動です。」
と、声にした。やっぱり、こうやってつながっていくと、数学は面白いんだろうね。私も、こういうのが好きで数学始めたし、数学の醍醐味なのかな。じゃあ、最後まで話をしちゃおうか。
「じゃあ、こういう風に計算して、二つの数を実際にかけてみよう。そうすると、多分予想以上に面白いことになるよ。」
というと、私は一旦ホワイトボードの方を向いてから、また彼の方を向いた。、ちゃんと彼が自分でやっているのを確認したら、私もまた実際の計算に移る。
$$a(cos(\alpha)+isin(\alpha))\times b(cos(\beta)+isin(\beta))=ab(cos(\alpha)+isin(\alpha))(cos(\beta)+isin(\beta))$$ $$ab(cos(\alpha)+isin(\alpha))(cos(\beta)+isin(\beta))=ab(((cos(\alpha)cos(\beta)-sin(\alpha)sin(\beta))+i(sin(\alpha)cos(\beta)+cos(\alpha)sin(\beta)))$$ $$cos(\alpha)cos(\beta)-sin(\alpha)sin(\beta)=cos(\alpha +\beta)$$ $$(sin(\alpha)cos(\beta)+cos(\alpha)sin(\beta)=sin(\alpha +\beta)$$ $$ab(((cos(\alpha)cos(\beta)-sin(\alpha)sin(\beta))+i(sin(\alpha)cos(\beta)+cos(\alpha)sin(\beta)))=ab(cos(\alpha +beta)+isin(\alpha +\beta))$$
ここまで書いて、一仕事終了っていう感じだね。長い式変形を書いていると、やっぱり少し疲れるね。さて、雅君の方はというと、まあ予想通りっていう感じかな。なんというか、不完全燃焼だったという顔をしていた。私は、ちょっと意地悪がしたくて、ホワイトボードを身体で隠して、話をした。
「多分雅君と同じ感じで計算していると思うんだけど、確認していこうか。」
と言って、雅君に式の確認をさせた。もちろん一番下を隠して。雅君は確認作業が終わると、私に聞いてきた。
「それで、最後はこんなぐちゃぐちゃな式なんですか?」
と、もっときれいになってほしいっていう、数学者らしい疑問。すごい私も共感できるからこそ、ためてから数式を見せて言う。
「最後に、三角関数の加法定理を使うんだ。そうすれば、最後の三角関数をまとめて、角度の和になるんだ。素敵じゃない?」
と、言うと、雅君は私の後ろの式を見て、今度は海が割れたかのような驚きをした。そのまま後ろに倒れて失神しちゃうんじゃないかって心配するほどだった。それから、気を取り直した雅君は、叫び気味に私に言った。
「こんなに綺麗になるんですね!!複素数って不思議」
私は、なんといってもその言葉がうれしかった。私が教えたことで、そんな風に反応してもらえたことがうれしくてたまらなかった。私の感動を雅君にも味わってもらうっていうのは、どの分野でも大変だけれど、できた時の喜びは苦労に比にならないんだ。
いったん落ち着いてから、時計を見るとあんまり時間が残ってなかった。だから、私は雅君に急ぎ気味に最後の話をした。
「さっきの、角度を用いて複素数を表す方法のことを、極形式っていうんだ。いつも使っているのは直交座標っていう言い方をするんだ。覚えといてね。」
「はい!!」
理解できたことが、よほどうれしいのか、彼は楽しそうに言った。でも、私はその余韻に浸る時間はなかった。
「じゃあ、今日の授業はこれでおしまい。時間も時間だから、急いでいくよ。」
というと、二人して急いで荷物をまとめて、オイラー部を後にした。