空虚なる数

日もいつものように、一番乗りで部室に到達した…はずだった。

「なんで解けないんだ~…」

 と、誰かが部室の中で声を上げているのが、聞こえてきて、急いで部室に入ると、雅君がすでにいつものところに座っていた。私に気が付くと、さっきまでの様子を隠すように

「こ、こんにちわ~」

 と答えた。私は軽いほほえみを浮かべながら

「今日は早かったね~。うちの部室は自由に使っていいから、そんなに気にしなくていいよ。」

 と言ってあげた。雅君は、それを聞いてほっとしつつも、なんだかまだ恥ずかしそうにしていた。雅君の声が聞かれていたっていうのが、恥ずかしいんだとは思う。でも、そんなに気にしていたら数学をやる環境なんて作れないから、これぐらいには慣れてほしいなぁ。

 雅君が来てから、いつもは使わなかった教壇に立つのが慣れてしまっている。多分教えるのはいいことなんだろうけど、最近自分の勉強、というか研究に手を出せていないっていうのも現実だ。あんまり雅君の事ばかりになるのも、すこし考えたほうがいいのかも。まあ、今日はこのままやるけど。

 教壇に立つと、いつものように雅君の方を向いて、話しかける。

「さて、今日は虚数についてやることにしようか。」

 虚数 それは、私にとっては最高の出会いだった数だ。まあ、今はそれは深くは思い浮かべないけど。

 私が話の続きをする前に、雅君が先に声を出した。

「虚数って、変な数ですよね」

 と、雅君は多分何の気なしに言った。でも、私にはその言葉が引っかかったから、問い返した。

「変な数って?」

 すると、雅君は自信ありげに答えた。

「だって、二乗したら-1になる数なんて、存在しないじゃないですか」

 あ~。これは厄介というか、誤解しているパターンだね。どうやって話を進めるのがいいかな。ま、まずはいつも通りに話していこうか。

「確かに普通な数とは違うよね。でも、そういう数は他にもいろいろあるよ。例えば、√とかね」

 と言いながら、私はホワイトボードの見出しに虚数と書いておく。このまま話を続けるか、それとも先にホワイトボードを仕上げるか。どっちを優先しようか考えた末、先に話をすすてしまうことにした。

「確かに、二乗したら-1になる数は、実数には存在しないね。とはいっても、実数以外の数が存在しないとも限らない。数学は無限に広げられるからね。」

 手を大きく広げながら彼に行った。そう、数学は無限に広げることができる。ある条件の下では。それについては多分

「勝手に広げていいんですか?」

 と、雅君が聞いてきた。予想通りの質問。論理的な思考の彼ならきっとこう問うて来るだろうと思っていた。だから、私は用意していた答えを切り出した。

「もちろん制約はあるよ。限りなく自由に近いようで、崩壊を防ぐことのできる制約。まるで地上で何をしていても、重力があればその概形を保っていられる地球のようにね。」

 そういうと、私は何時ぞやの風景を思い浮かべた。先輩と二人で、同じような会話を繰り広げ、そして先輩はその研究に明け暮れるようになった時。こうやって教える立場になったからこそ見えてくるものがあったんだって、今になって気が付いた。まあ、海外に行ってしまった先輩には追い付けないけど。

 なんて考えてられないや。話を進めないとね。

「じゃあ、雅君にクイズ。最低限の制約ってどんなものだと思う?」

 どうやって話をつなげるか考えていたけど、こうやって頭を使わせるのも大切。頭が働いていないと、ここら辺から厳しくなってくるからね。頭が起きているかの確認だ。

 雅君は、一分近くずっと悩んでいた。そんなに長く悩んじゃうのって思っちゃった。途中で助け舟を出そうかと思ったけど、最後まで待つって決めた。すると、彼はちゃんと答えをだしてくれた。

「矛盾しないことですか?それぐらいしか思いつかないです。」

 と、いつものように、自信なさげに答えた。でも、私は彼を盛大にほめた。

「雅君、それは半分正解だよ。こんなに何にもない状態で答えを出すっていうのは、難しかったと思うけど、よく頑張ったよ。だから、もっと自信をもって。」

 と言ってあげた。そう、彼の答えは半分あっている。というより、答えの半分なんだ。まあ、雅君が本当にその言葉の意味を理解しているかどうかはわからないけれど。

 多分、これまでで一番にこにこしながら私は話を進めた。

「数学で、新しい物事を導入するために必要なのは、数学の無矛盾生徒完全性が保たれることなんだ。」

「無矛盾性と完全性?」

 と、反射的に雅君は問い返した。私は、一旦ホワイトボードにその二つの言葉を書くと、続きにいくらか言葉を並べた。

無矛盾性…全ての命題において真偽の双方が成り立つことがないこと 完全性…全ての命題に置いて、真偽のどちらかが成り立つこと

 ここまで書くと、彼の方にまた向き直って、話をつづけた。

「今回は、虚数の話だから、ここら辺は手短に話をちゃうね。無矛盾性って言われるのは、あるものに対して、真偽共に成り立つっていうことがないっていうことなんだ。一番使われるのは、背理法として、証明したい命題の偽を仮定して、そこから新しい命題を作る。そうすると、新しい命題に置いて、真偽の両方が成り立つ。それはおかしいから、最初の仮定がおかしいっていう方法なんだ。まあ、じつはこれ自体が数学の無矛盾性と完全性を使っているんだけどね。」

 と言って、一旦話を切った。雅君の手を見ると、一生懸命ノートをとっているようだったので、ちゃんと聞いているって確信できた。だから、話を続ける。

「完全性っていうのは、ある物事に対して、真偽のどちらかは成り立つっていうこと。逆に言えば、どちらともいえないものは存在しえないっていうことなんだ。ただ、実はこれについては難しい定理で壊されてしまった部分もあるんだけどね。」

 と、特に話す気はなかったけど、すこしだけ最後にあの定理について付け足した。すると、まさかとは思っていたけど、雅君がそこに食いついた。

「どんな定理なんですか?完全性を壊した定理って」

 と、さっき以上に興味津々といった様子で聞いてきた。私は、すこしだけ話してあげた。

「ゲーデルの不完全性定理の第一がそれにあたるね。内容としては、ペアのの公理と集合論を用いて作られた体系Pが無矛盾と仮定すると、真偽どちらとも決定できない命題が存在するっていうものだね。これについては、今は省略するね。」

 と言って、この話は中断した。やっぱり、論理的な思考を持つ彼にとって、この話は興味深いものだったんだと思う。でも、今はそれについて話している暇はなかったので、割愛しちゃった。すると、やっぱり彼は残念そうな顔をしていた。だから、少しでもこの後の話に興味を持たせようとした。

「結局、新しく導入しても、無矛盾かつ完全っていう条件が守れるなら、何を導入してもいいんだ。まあ、基本的に私たちが意識して使うことはないんだけどね。それで、虚数は実数しかない世界に導入しても矛盾は生まれないし、完全性も保たれるんだ。これはあとから話すことだけど、ほんのちょっとだけ書いておくと」

 と言って、ホワイトボードに式を書き始める。と、ようやく底になって、私が一人で話しまくっていることに気が付いた。あんまりよくないことだから気を付けないと。まあ、式は描くけどね。

$$(a+bi)+(c+di)=(a+c)+(b+d)i$$ $$(a+bi)\times (c+di)=(ac-bd)+(ad+bc)i$$

 ここまで書いて、もう一度雅君の方を向く。

「じゃあ、雅君、これは何を表している式だと思う?」

 と、雅君に頭を使わせるように聞いてみた。すると、雅君からこんな答えが返ってきた。

「実数と虚数が混じった数ってなんて呼べばいいんですか?」

 と、足り無いものを探すように。そういえば、この言葉をプレゼントするのを忘れていた。大切な新しい数の言葉。

「$a+bi$、つまり実数と虚数の和で表される数は複素数って呼ぶんだ。」

 あえてここまででとどめておいた。下手な言葉を足すと、助け舟になったり障害になってしまう。それに、雅君ならきっと答えてくれると思うから。

 予想通り、雅君からちゃんと返事が届いた。

「多分ですけど、複素数の和は複素数だし、その積もまた複素数になるっていうことですか。つまり、複素数をいくら計算しても複素数にとどまると。」

 と、さっきよりも自信ありげに答えてくれた。その自信にこたえるように、私は答えた。

「そういうことだね。つまり、複素数の計算は無矛盾かつ完全っていうこと。だから、複素数は数学に導入しても問題がないんだ。」

 というと、彼は何度かうなずいた後に

「矛盾が起きなくて、必ず答えが出る要素なら導入しても問題ないんですね。僕が虚数に違和感を抱いたとしても、虚数を導入した数学が無矛盾かつ完全だから問題ないっていうことですか。」

 と、落ち着いた様子で答えた。私は彼の顔を見ながら何度か首をこくこくと縦に振った。論理的な彼だから簡単に理解できることなんだけど、私には結構理解できなかったことだ。だから、スムーズに理解してくれたのは、少しうれしかった。とは言っても、複素数については、まだほとんど話ができていない。まだまだこれから難しい話が残っているんだ。

「それじゃあ、本格的に虚数について計算していこう。一応だけど、虚数のこのことだけは覚えていてね。」

 と言って、ホワイトボードに$i^2 = -1$って書いた。そして、雅君の方を見ると、さも当然というような顔をしていた。だから、特に何も聞かないでその先の話をすることにした。

「ただ、自裁に複素数の計算に入る前に、一つ武器を入手しよう。」

「武器?」

 と、雅君は首を傾げた。複素数を勉強するうえで強力な武器があるんだ。それを先に説明しちゃいたいと、今全身がそう思っているから、説明しちゃう。

「実数のときには、数直線って言って、一直線上に数を羅列で来たよね。それと同じような性質のもので、複素数に対応したものを手に入れるんだ。」

 と、先を急ぎながら話そうとしていると、雅君がそれを止めた。

「数直線の複素数バージョンですか。う~ん。直線には収まらないですよね。」

 あれ、もしかして雅君、実は複素数得意なんじゃないかな。それに気が付けるっていうのは結構すごいことだと思う。

「そうだね、複素数は直線に無理に収めることはできないから平面にするんだ。どんな平面になると思う?」

 と、漠然過ぎると異をしてみた。すると、雅君は意外にもそれにこたえてくれた。

「確か本で読んだ覚えがあるんですけど。x軸が実数でy軸が虚数だったはずです。それ以上のことは、分からないです。」

 と、最後の方はいつものように答えた。そこまで知っているんだったら、話は楽かもしれない。そう思って、話を一気に続けてしまうことにした。

「雅君の言うとおりだよ。実数と虚数は0意外の点で交わらないし、お互いに作用しないから、直角に交わるように作るんだ。見た目はこんな感じかな。」

 と言って、ホワイトボードに複素数平面の概形を描いた。

 そうして、もう一度彼の方を向いて話を続ける。

「これが複素数平面って呼ばれているものだよ。実際には、普通の座標平面とほとんど変わらないんだけど、さっき言ったみたいにx軸が実数でy軸が虚数を表しているんだ。だから、点の座標を(x,y)っていう風に表すんじゃなくて、x+iyっていう風に、一つの複素数として表せるんだ。今は説明しないけど、全ての複素数に漏れもダブりもなく対応しているから、複素数を使うんだったら、これがあるとすごい楽になるんだ。」

と、私が熱弁しながら、頑張って話を進めようと思っていたら

キーンコーンカーンコーン

 と、とうとうチャイムが鳴ってしまった。やっちゃったなぁと私が思っていると、雅君がきょとんとした表情で

「このチャイムって、いつなる奴なんですか?」

 と聞いてきた。私が急いで帰りの支度をしながら

「下校前の予鈴だよ。あと五分で校門が閉まるね。」

 というと、雅君は急に焦りだして

「急いで帰ります。」

 と言って、私と同じように帰りの支度を始めた。二分と経たないうちに、二人とも荷物をまとめ終えると、部室を飛びだした。そして、二人とも他なりにいるのに言葉も交わさずに校門まで走った。

 校門前には、いつもは見ない人たちが集まっていた。オイラー部は他の部活と違って、少し早く解散しているから、いつもはほとんど人と会うことはない。今日みたいに大事な話をしていると、たまにこうなることもあるんだけどね。

 さて、雅君との数学は、研究室に置いてきちゃったから、また明日だね。

updatedupdated2024-11-072024-11-07