次の日も、私はいつも通りオイラー部の部室に入り浸っていた。昨日のホワイトボードを眺めながら、きょう開設する内容を考えている。まあ、雅君が今日も来てくれることが前提なんだけれどね。そうだなぁ。今日やるんだったら…
ガラガラ
「失礼します」
この声は、
「また来てくれたんだね。また適当に座っていいよ」
昨日来てくれた結城 雅君に違いない。丁度考え事をしている最中に入ってきたから、適当な扱いしかできなかったけど、昨日もあってるし大丈夫かな。さて、それじゃあ今日話す内容はあいつに決めちゃおうかな。それ自体は難しくないのに、公式とかが面倒くさいあいつに。
「それで、篁先輩、今日は何を教えてくれるんですか?」
そうなんだよね。私は今先輩になっているんだから、先輩呼ばわりされて当然のはずなんだよね。それなのに、言われると背中がむずがゆい感じがして、あんまり慣れない。まだ先輩がいたころの方が体に染みついてしまっているんだろう。
「えっとね、今日はこの$sin$と$cos$っていうもの。つまり三角関数を目標に話を進めていくよ。」
昨日自分がどんな感じに話していたか、あんまり思い出せないけど、なるべく機能の漢字に近づけないと、と思って、なんか変なテンションになっちゃった。後輩の前でやるって、やっぱり恥ずかしいんだなぁ。
「じゃあ、まずは、三角比っていうものについて話を始めていこうか。 相似については知っているよね」
そう問うと、雅君はやっぱり当たり前と言わんばかりの声で言った。
「二つ以上の図形が、辺の比が等しく、角度が等しいときのことです。」
やっぱり、雅君はちゃんと学んだ知識を頭に入れているから、安心する。どこかの、うちの妹の馬鹿とは違うから、安心して話が勧められる。
「そうだよね。今回は特別に、直角三角形について詳しく話を進めていこうか。」
というと、雅君は今日の話が特に興味があるという様子で、身を乗り出して聞こうとしているから、少しびっくりしてしまった。私もそんなにしっかりと説明できるか心配だけど、真剣に聞いてもらえると、教えがいがあるから楽しい。
「まずは、三角形の相似条件を確認しようか。これも中学でやったよね?」
私はやったつもりでも、他の人は学んでいないこととかもあるから、心配になってしまったけど、大丈夫そうだった。
「もちろんです。 3組の辺の比がすべて等しい。 2組の辺の比が等しく、その間の角が等しい。 2組の角がそれぞれ等しい。 の三通りです」
と、はきはきと答えてくれた。高校生になって、久々に聞いてみると、なんだか懐かしく思えてしまう相似条件。なんというか、田舎の香りが立ち込めそうな気がした。
「それじゃあ、今日はその中でも一番最後の 2組の角がそれぞれ等しい を中心に話を進めていくよ」
というと、久々にホワイトボードに文字を書いた。昨日描いて消した部分にまた上書きしていく。
-三角比 三角形の相似条件 3組の辺の比がすべて等しい。 2組の辺の比が等しく、その間の角が等しい。 2組の角がそれぞれ等しい。
一通り書き終えると、また雅君の方を向いた。
「直下三角形っていうことは、すでに一つの角が決まっているっていうことだよね。ということは、一番下の相似条件を使うためには、あと何の情報が必要かな。」
雅君みたいな人には、あまりにも簡単な問題な気もする。それでも、一応聞いておかないと、確認しないで進むのは危険だ。
「あともう一つ角が分かれば、相似条件が使えます。」
「そうだね。もう一歩踏み込んで考えると直角ともう一つの角が等しい三角形はすべて相似っていうことなんだ。これを用いて作られたのが、三角比と呼ばれるものなんだ。」
そういうと、私はホワイトボードに例の三文字を三つ描いた。 $$sin$$ $$cos$$ $$tan$$
「この三つが三角比って呼ばれているものなんだ。三角比っていうのは、直角以外でわかっているもう一つの角を用いて、集合を呼び出す関数なんだ。」
いつもわかってはいるんだけど、どうしてもやめられない。先に難しい言葉を言ってから、だんだん解きほぐしていく教え方。この方法を使うと、かなり理解がしやすいとは思っているんだけど、わかった気になってしまわせてしまうこともある。だから、あんまり使いすぎてしまうと、生半可な理解で進んでしまうこともあるとわかっていても、教えやすさからしてこの方がやりやすい。とはいっても、教えることの本文は、教えられる側が理解する事が大事だから、教える側のことを第一にしたら大問題だ。注意しないとね。
「えっと、その何か具体例をもらえませんか…?」
昨日より声も少しだけ大きくなったその声に、雅君の進歩を感じた。やっぱり、昨日の話の進め方のおかげか、雅君も理解することの喜びを知ってくれていたら嬉しい。そう思うと、すこしだけ張り切って話をする。
「そうだね。例えば」
と言って、またホワイトボードに例を書きいていく。三角比の例と言ったら、やっぱりこいつなんじゃないかな。高校受験で毎回出てくるであろう、見慣れた比率の三角形。
角度がそれぞれ $$30\circ 60\circ 90\circ$$の、一番わかりやすい三角形を書く。三角定規にも使われていて、辺の比が$$1:2:\sqrt{3}$$だから、問題にもよく使われているから、好かれていないことも多い。きっとこの例なら、理解してくれると思う。
これだけだとまだ分かりにくいし、ついでにいくらかの情報もついでしておく。 $$偏角 30\circ$$ と書いて、ここまででいったん止めておく。
「この三角形の辺の比は、もう三角定規で見慣れたと思うんだけど、さすがにわかるでしょ。」
雅君は、無言でうなずく。ここからの話がどうなるのか、不安な風だったから、すこしリラックスしてもらうように、やわらかい話し方をしていく。
「この三角形を、$30\circ$の角度を基準に見ると、斜辺が2で隣辺が$\sqrt{3}$で、対辺が1になるでしょ。これが一つの三角比を構成しているんだ。実際に三角比っていうのが何なのかというと」
と言って、本格的な三角比の話を始める。そういえば、私が最初に三角比を習った時も、まったくもって理解できなかった覚えがあって、その問いは無理に公式を丸暗記してテストに臨んだことがある。まあ、使い方もわからなかったから、ボロボロなテスト結果だったけど、その後先輩に教えてもらって、どうにか理解できたんだった。
頭で関係ないことを考えていても、ホワイトボードには、数式を書き並べていく。これが数式への信頼っていうものなのかもしれない。
$$sin\theta = 対辺/斜辺$$ $$cos\theta = 隣辺/斜辺$$ $$tan\theta = 隣辺/対辺$$
$$偏角が30\circの時$$ $$sin30\circ = 1/2$$ $$cos30\circ = \sqrt{3}/2$$ $$tan30\circ = \sqrt{3}$$
さてと、ここからが本番かな。ここで難しいなんて思わせちゃったら、きっと理解しようとしなくなっちゃう。前の私もそうだったけど、最初に無理だと思ったら、心が拒否しちゃうみたいに、受け付けなくなっちゃう。だから、なるべく優しい言葉で、拒絶されないようにしなきゃいけない。
「直角三角形で、偏角、つまり注目している角度が等しい三角形っていう者たちは、全て辺の比が等しいっていうのは、相似条件に当てはめたらわかるでしょ。三角比っていうのは、その辺の比の値を出す関数のようなものなんだ。」
これが少しでもこわばらせないような役割をしてくれればいいと思ったんだけれど…
「…良く分かんないです…」
そこまで期待はしていなかったけど、昨日指数法則を話した時のような答えだった。まあ、一回でうまくいくとは思っていないけど、あんまり怖がられてしまうのは困る。だから、何かいい物がないかなぁ。
「なんて説明したらいいかなぁ。まぁ、こんな感じで順番だてたらわかりやすいかな。」
ホワイトボードに、フローチャートの様に書き込んでいく。
$$直角三角形で偏角が等しい\rightarrow 相似$$ $$相似\rightarrow 辺の比が等しい$$
「この二つはそんなに難しくないと思うんだ。」
そういうと、雅君はおどおどした様子で考え込んでから、少しずづ理解しようとしてくれているみたいだった。助かったのは、ここであきらめないで、理解しようとしてくれていることだ。もう無理と決めつけて、すねてしまう人も多くいるから、ここまで残ってくれているだけでも、いいことだと思う。何度でも雅君の心に、その頭脳に直接語り掛けなくては行けないんだ。いつかその扉が開いて、新しい物事を受け入れられるようになるまで。
「つまり、直角三角形で偏角さえわかれば、辺の比が出せるでしょ。」
「そう…ですね」
さっきは反応してくれなかったけど、今回は反応してくれた。それが、わずかだったけど私の心を安心させてくれた。
「その辺の比を表しているものだと思ってくれればいいよ。」
「…なるほど…」
昨日雅君から聞くことがなかった「なるほど」っていう声が聞こえた。まあ、それが理解を表しているのかは、完全には分からなかったけど、それでもうれしかった。とはいっても、あんまり畳みかけてもしょうがないし、ゆっくり話をしていかないとね。
「その辺の比の一部を返す関数なんだ。例えば、変な機械があったとしようか。その機械には、偏角を入れると、直角三角形の時の、斜辺と隣辺の比を返してくれるものなんだ。そうすると、機会に$30\circ$っていうと、機械は1:$\sqrt{3}/2$って答えてくれるでしょ」
と言いながら、ホワイトボードに変な図を描いた。我ながら我力が足りないなぁと思ってしまう。
$$30\circ \rightarrow 機械 \rightarrow 1:\sqrt{3}/2$$
真ん中に本当はブラックボックスを描こうと思ってたんだけど、ぐちゃぐちゃした図にしかならなかったからあきらめてただの機械って文字にしちゃった。なんか、頼りない先輩になっちゃってるかな。まあ、絵はもう仕方ないけど。
「三角比はこんな風に応えてくれる機械の一種だと思えばいいよ。」
「あぁ…なるほど!!」
私が言葉を最後まで言い切るかのうちに、雅君が声を上げた。さっきまでの雅君の瞳とは打って変わって、理性的で理論的な、漆黒で先の見えない色が映し出されていた。そこに私が映っているのかさせ怪しくなってしまった。
「つまり、sinに偏角を伝えると、その時の斜辺と対辺の比を教えてくれるってことですね。」
凛とした雅君のその声に、半ば圧倒されながら、私はうなずいた。私が、雅君が理解したんだと知ると、雅君を褒めてあげる。
「Good for you!」
人が成長していく様子を見ているのは、とっても楽しい。こうやって、私が教えながら理解していく様子を見るっていうのは、とっても嬉しいし幸せに感じることだ。自分で学ぶことと同じくらい楽しい事だった。だから、私は話をすこし飛躍させようと思った。