星に願いを

だったらこんな時にどうやって対処したかな。 きっと嘘でも本当でもないことを言って傷つけないように伝えたよね。 今度はきっと僕の晩なんだ。

 俺は近郊都市の底辺高校に通っている。そう聞いたらどんな人物を想像するだろうか。暴走族や半グレ、半端物からホスト。俺の学校にもそういったやつはいるし、校内でも名をよく聞くやつらはいるが、俺はそうなれなかった。

 本当はちゃんとした高校に通いたかったけど、親が家から一番近い高校にしろというのでここになってしまっただけだ。だから今の高校に俺とそりが合う奴なんていないのは当然だ。いつも一人ぼっちで過ごしている。

 普段は今みたいに教室の隅の席で学校から配られた教科書や問題集に目を通しながら時間が過ぎるのをただ待っている。どうせ何の役に立つわけでもないけど。

 授業中だというのに教室の後ろのドアが突如として開いた。まあ底辺校で授業を聞いているのは一人としていないけど。目を合わせないように気を付けながらドアのほうに視線をやると、大柄な男が何に染まったかわからない木製バットを片手にしていた。

「ここが例の奴の教室だな」

 後ろに隠れていた二人の子分にそう尋ねたらしい。狸みたいな二人はうんうんとうなずいて俺のほうを指さした。

「お前が二年の山田を転がしたんだってな?」

 俺のほうにつかつかと歩み寄ると背後に三人で構えた。開いていた教科書を閉じると軽く目を伏せて答える。

「そうだと言ったら?」

「わざわざ三年の俺が出てきたんだからわかってんだろ。それとも一発殴らないとわからないか」

 やたらでかい声絵の割にスライムのようなねばねばした触感が耳に不快だった。

「ここでやるのはお互い得策じゃないだろ。やるなら今日の夕方にいつものところでだな」

「いいぜ、久しぶりの喧嘩だ。腕立て百回やって準備しといてやるよ」

 そういうとこ分もまとめて教室を後にした。帰っていく三人の姿を見届けてからちらと教師を見たが、どうやら一応授業は続いていたらしい。いやただの独り言というべきか。

 中学時代は喧嘩なんて好きじゃなかった。むしろなるべく謙虚にして人とぶつかることは避けていた。しかし一度人を殴る感触を覚えてしまったら止まるということはできなかった。親からの圧力や環境に対しての苛立ちを乗せた拳は金剛石より硬い。はずだ。

 約束通り部活が終わる前の時間帯、学校近くの公園で例の三年生が現れるのを待った。どうせ宮本武蔵の気分で遅れてやってくるだろう。あのヘドロ色のバットをもって。

 想定通りの時間にやってきたやつは、つい先日この場所で殴った名前も忘れた二年生と古文二人を連れていた。

「約束通り来てやったんだから感謝しろよ、仲間もいない一年小僧」

「背中を自分で守れねぇやつに言われたくねえよ」

 吐き捨てるように言うとどうやらその態度に気がふれたみたいだ。古文に何か言い捨てるとつかつかと俺の前に歩いてきた。

「覚悟しろよ。死んでも知らねえから」

 言い終えると同時に奴は俺めがけて突っ込んできた。いきなり右手に持ったバットを全力で今朝に叩き落そうとしてくるのを軽くバックステップしてよける。するとよろけたやつは無理やり逆今朝にバットを振ろうとしたので懐に飛び込む事にした。

「そんな大振りで当たるわけねえだろ。」

 奴の喉元めがけて握り拳から人差し指と中指だけ少し突き出した形拳を突き出す。鵜っとのどを詰まらせたところを左の足で奴の右手を蹴るとあっけなくバットは手から零れ落ちた。がむしゃらに突き出してきた左腕をよけると伸び切ったところを捕まえる。ひねってそのまま肘を逆側に曲げてやった。

「お、俺の負けだ。悪かった」

 ありえない方向に曲がった自分の腕を見てへたり込んで今にも泣きだしそうなやつは慈悲を乞うた。しかし俺の答えは決まっている。

「謝罪するなら俺のサンドバッグになってくれよ。」

 絶望に染まるやつの顔面を一発殴るとぐにゃりという触感とともに鼻がひしゃげた。その顔を見ると父親を思い出しそうになり、思わずやつを押し倒して馬乗りになって殴った。湧き水のようにとめどなく俺を暴走させる怒りにのまれながら。

 腕が疲れ殴るのが飽きた俺はやつを解放してやることにした。。

「とっとと俺の前から消えろ。」

 しかしやつからの反応はなかった。処理するの面倒だから自力で歩いてほしかったんだが、仕方がないのでそばにいたあいつの子分を呼びつけた。

「こいつのことは混んで桶。あと二度と俺の前に現れるなよ」

 すると遊具の陰に隠れていた三人が現れて倒れたやつを手分けして抱えると公園を後にした。残されたのは生暖かい拳の感触とぼんやりとした虚無だけだった。

 喧嘩した後の公園で俺はいつもブランコに乗った。ブランコはその揺れ幅は自在に変えられるけれど揺れる向きは僕には変えられない。いつかはこんな生活も好転するんじゃないかと思って。

 ブランコのきしむ音と夜空の星に夢中になっていたからいつの間にか隣に座っていた少女に気づかなかった。

「もう気が付くのが遅いよ」

 月明りでもわかるくらいいじけた様子を見せた彼女は一言でいえばきれいだった。夜空に浮かぶ月のように、すさんだ公園に佇んでいた。それを押し殺すようになるべく冷たく言い放った。

「お前なんか知らねぇよ」

 突き放そうといった言葉に彼女は怒るでもすねるでもなく言った。

「同じクラスの生徒くらい覚えたほうがいいよ。それに、女子相手にお前は言い方が悪いと思う。君とかあなたとかね。」

 恋人でもない女子にあなたなんて言うかよ、という言葉はなぜかのどに押し込まれた。

「それで俺に何の用だよ。」

 彼女はううんと首を横に振るとブランコに乗りなれた幼稚園児のように漕ぎ始めた。

「ただ星を眺めたい気分だったの。そしたら君がいたってだけ。」

 今度は僕がブランコを止めて彼女を見る番だった。六にアイロンがけもされていないブラウスにいつついたのかわからないシミのあるスカート。かばんに至ってはどうやら自分で塗ったらしい後まである。それでも俺より小さな手でブランコの鎖をつかんだ手は、星を見上げる少女の横顔はどこまでも綺麗で僕の視線をつかんで離さなかあった。

「そんなに見つめないでよ。制服、汚いのはわかってるんだからさ。」

「いや、そんなことは気にしてないよ。ただちょっときれいだなと思っただけ。」

 自分でもなんて言ったのか正直わからなかった。その言葉に彼女は一瞬動きを止めたが、すぐにぱあっと笑った。

「冗談はいいんだよ。それよりさ、君は星について興味ある?」

 見事に話題をすり替えると、君は天体について語り始めた。

「夜には星が見えるけど、月明りで隠れちゃう星もあるの。昼間なら太陽がいるから月も見えなくなっちゃうけどね。それでも星はずっと光ってるんだよ。」

 いつか誰かに見てもらうために。そう彼女は言っていた。

 それから夜空の星座や星の名前の由来など、こんな底辺校の生徒とは思えないほどの知識を僕に教えてくれた。その一つ一つが僕には新鮮で、これまでただの星屑としてか思ってなかったものが、希望の塊のように見えた。初めて本当の星の輝きを知ったのかもしれない。

 夜も暮れた頃に彼女は次いつ会えるか聞いてきたので、いつでもいいよと答えると、また明日ねと言い残して帰っていった。一人残された僕だったけど、星がすぐそばにいるような気がした。

 それから何度も夜の公園で黄身と話した。彼女の天体の知識自慢から身の上話、将来についてのことも。

「私は母子家庭なんだよね」

 そう教えてくれたのは何回目にあった時だっただろうか。新月の火で夜空は満天の星空だった。

「お父さんがなくなったのは中学生の頃のことだった。すごく優しいお父さんで、少しぐれてた私のことを暖かく見守って、時には厳しくしかってくれた。説教が終わるといつも夜の公園に連れ出してくれたんだ。」

 そうしていつも天体について教えてくれっという。しかしそんなお父さんはふとしたことがきっかけでこの世を去った。

「その日は花冷えする、雪でも振り出しそうな日だった。車で仕事に行こうとしてるときに後ろから車に追突されたんだ。」

 勢いあまって歩道に乗り上げた車の先にあったのは通学中の小学生の姿だった。それを見た瞬間、彼はハンドルを全力で左に回した。奇跡的に小学生にぶつかることはなかったものの、その奇跡の代償は安いものではなかった。あまりにひどい事故現場だったから彼女のも実物は見れなかった。

「お父さんが死んじゃってからひと月ぐらいはいつもみたいに喧嘩もしたし悪いこともしたよ。でも誰も叱ってくれなかった。誰からも見放されるような孤独を感じたの。」

 それからお父さんをなるべく心配させないようにするためにも、高校に進学して何とかいい仕事を見つけようとしていると語った。

「いつか星とか空に関わる仕事をしたいんだ。」

 そういう彼女の視線はまっすぐにベテルギウスに向けられていた。

「きっと君ならなれるよ」

「あ、珍しく君って呼んでくれた~」

 たった一言の変化に子供の成長のように喜ぶ彼女の笑顔は夜空にはまぶしかった。でも彼女のまぶしさは星をかき消さない優しいものだった。

 彼女と一緒に星を見る時間は最初こそただの暇つぶしのように感じていたけど、今ではその一時間ぐらいのために残りの23時間があるような気がしていた、毎日のすべてが彼女とブランコに乗るためだけだった、

 この公園以外の場所にしようといったこともあったけど、初めて会った公園だからといって場所を変えることは譲らなかった。確かに街の明かりも少なく星を見るには最適な場所だったと思う。

 このころから僕は何かをするときにいつも君の顔を思い出してた。君なら何て言うだろう、君ならどうするだろうと考えて、そうするように努めた。もちろんすべてできたわけではないけど、周りの雰囲気や親の態度が少しずつ変わってきたような気がした。僕にとってそんなことは些細なことでしかないけど。

 その日、僕は彼女に伝えるつもりだった。子の胸の高鳴りを、好きという気持ちを君にも教えようと思っていたんだ。しかし、いつもの場所に彼女は現れなかった。ブランコに乗りながらいろんな可能性に思いを巡らせる。そのたびに胸が締め付けられるような居ても立っても居られない気持ちになって公園を飛び出した。

 学校の図書館、体育館裏、半グレのたまり場、警察の探し人のコーナーも見た、しかしどこにも彼女の姿はなかった。空に光る星がちらちらと目に映るたびに煩わしく感じた。

 結局彼女のことは見つけられないまま学校に行った。何か情報が得られればと思ったけど、教室は相変わらず荒れ果てて掃きだめにすらならなさそうだった。違ったのは校内を走るバイクの音がしなかったことぐらいだ。

 担任の若い男性教師はさも当然のことのように、確かにこの学校においては当然のこととして彼女のことを言った。

「彼女はバイクとの衝突事故で入院しているのでしばらく学校には来ないから。」

 話題はすぐに次の話に移っていき、その声はクラスメイトにかき消されたが、その言葉は僕の耳にしっかりとのことった。

 彼女が入院した?バイクとの衝突事故で?

 そう思った瞬間には僕は教室を飛び出していた。クラスから彼氏は忙しいねぇなんて冷やかしが聞こえたが、そんなことにかまっている場合じゃなかった。

 この市内で大きな病院といえば一か所しかない。そこにたどり着いて正面玄関前に立ってから足が竦んだ。もしこれで彼女が助からない状況にあると知ったら、そんなことを考えずにはいられなかった。見えない大きな壁が病院と僕の間に存在するような気がした。きっとその壁は僕が作ったものだ。

 こんな時、君ならどうしただろうか。きっとこういったはずだ。病室のドアを何気なく開いて、なんとなく君ならここにいるような気がしたんだなんて言って軽く微笑むんだろう。それなら僕もそうしなきゃ。

 病院の正面玄関から入ると、左右に謎の受付があり正面にはずっと続く可のように廊下が続いていた。途中にエスカレーターがあり上下の階への移動ができるようになっていて、中央は大きな吹き抜けになっている。一つの町のような病院だ。

 あえて当然のようなそぶりで病院の中央を歩いていくと、左側に面会者用の受付があるのが見えた。そこには一人の事務員がスクリーンの裏にいて、紙を埋めて渡すと面会者の札がもらえるようだった。

 事務員が一瞬後ろに下がったすきに札だけこっそりとると首からかけた。赤いひもで透明なビニールに入った面会者と書かれた名札のようなものがぶら下げられている簡素なものだ。これが病院内での通行手形。

 病室に行くために中央廊下の先にあるエレベーターに向かった。そこには各階に入院している患者の種類が書かれていた。ICUは三階、消化器内科なら5階という具合に。とりあえず整形外科の患者がいる8階に行ってみることにした。

 病棟の看護師さんとなるべく鉢合わせないように気を配りながらそれぞれの病室の表札のようなものを確認していった。しかしどの部屋にも彼女の名字はない。もしかしたらと思ってそれぞれの部屋を少しずつ覗いたけど彼女らしき姿は見当たらなかった。

 どうしてと疑問が浮かぶ度、嫌な可能性が脳裏をよぎる。額に冷たい汗が流れた。でもここで帰るようなことは彼女ならしないだろう。全部自分の目で確かめて、調べてみようとするだろう。星の成り立ちをすべて覚えようとするくらいだから。

 エレベーターに乗り3階のボタンを押した。ゆっくりと下っていき、重苦しく扉が開いた。病棟の空気の圧に耐えかねたかのように。

 空気がしびれるような緊張感と死の香り、そして誰かの涙の痕が浮かんでいた。エレベーターから踏み出すことが怖くて、苦しかった。それでも一歩、一歩着実に床の感触を確かめるように足を踏み出した。

 ICUはほかの病室よりも簡素なつくりをしていて、より医師たちが簡単に見舞われるようにできていた。中には面会謝絶の札が降りている部屋も多く見受けられた。どうかここにはいないでくれと願いながら一つ一つ舐めるように確かめた。

 エレベーターから一番遠い部屋だった。僕が彼女の名字を表札に見つけたのは。目を疑った。疑いたかった。触っても目をこすってもその文字に変わりはなかった。ただよかったのは面会謝絶の札が降りていなかった。

 少し扉を開けて彼女以外の人がいなことを確認した。部屋の左手前のベッドに彼女はいるらしかったがその顔は確認できなかった。だから僕はきっと彼女がしたであろうことを実行した。

 部屋の扉を開けると彼女のベッドに近づいた。

「なんとなく君ならここにいるような気がしたんだ」

 しかし僕はうまく作り笑いをすることができなかった。ベッドに眠っている彼女があまりに痛々しかったから。

 左足はおそらく骨折のために吊り上げられて固定されていて、包帯で巻かれていない部位のほうが少ないくらいだった。左腕は包帯でほぼすべてまかれているが、点滴の部分だけわずかに空いていた。そこからちらりと見えた部分が人間の皮膚とは認識できなかった。

「…ぁあ」

 小さなうめくような声が聞こえた気がした。ベッドの横に屈んで彼女の耳になるべく顔を近づけて声をかけた。

「体の調子はどう?」

 当たり障りのないと思う言葉をかけてみたがすぐには返事は帰ってこなかった。しかし、彼女は徐々に意識が回復していったのか、目を少しずつ開くと僕のほうに首を向けた。そして僕の顔を凝視してから一言言った。

「あんた、誰。」

 いつも優しく僕を諭してくれた声から感情が省かれたような、温度のない声だった。固まっている僕に彼女はもう一度、追い打ちをかけた。

「うちはあんたのこと知らない。さっさと帰ってくれる?」

 そういうと彼女はだるそうに顔をもとの向きに直すと目をつむった。僕の心が音頭を取り戻すころにはわずかに彼女の寝息が聞こえていたので、また来るねとだけ言い残して病室を去った。

 彼女の病室が分かったから今度は面会の受付を通れる。彼女はどうやら重症だけど一通りの処置はすでに住んでいて一命はとりとめていること。それが分かっただけでも収穫だ。そう自分を言い聞かせながら病院を後にした。

 結局学校には戻らず、いつもの講演で夕方まで時間をつぶしながら考えた。もしかしたら手術とかで疲れて僕のことがわからなかったのかもしれない。それとも、あえて僕だと気づかないふりをしたのかもしれない。彼女ならそういうことをしてもおかしくはない。そう、おかしくはないんだ。

 黄昏時、ブランコから待ちゆく人を見るたびに彼女と見間違えた。いや幻想を見たというほうが正しいかもしれない。僕の隣のブランコに座ってくれる人がいずれ来るはずだと願っていた。しかし、そんな願いを聞き入れてくれる神様はいなかった。一人で夜空を見上げて星座を数え上げてもほめてくれる人はいなかった。

 それから学校終わりに毎日彼女の病室を訪れた。そのたびに彼女から拒絶され、小さな怒声を浴びせられてげんなりした。もうあの頃の彼女はいなくなってしまったのかなとも思った。夜の公園で見る星はいつの間にかかすんで見えるようになってしまった。

 四回目の面会の時にたまたま医師と遭遇してしまった。とっさに隠れようと思ったけど、ばっちり見つかってしまった。

「君は誰だい?」

 優しく、しかしいざというときには患者を守るという強い意志のはらんだ声。少したじろぎながら、素直に答えた。

「彼女のクラスメイトです。」

 その時にはICUではなかったためか、医師は警戒を解いて僕に教えてくれた。どこまでも残酷な現実のことを。

 頭部損傷による記憶喪失、それによる人格の変化の可能性。彼女の母親が一度しか病院に姿を現していないこと。そして一番知りたくなかったこと。

「彼女は事故によって脊髄に損傷を負ってしまいました。そして手術は成功とはいきませんでした。」

 脊髄の圧迫を除去する手術の際に不手際で迷走神経に損傷を与え、呼吸が正常に行えないが、人工呼吸は彼女がかたくなに拒否していること。このままなら二か月程度しか持たないであろうことも。

 目がくらむような情報だった。何とか医師の説明に相槌を打つことが精一杯で、意味をすべて理解できたのは医師が去ってからかなり立ってからのことだった。

 僕は病室に戻って彼女と対面した。すべての状況を理解したうえで彼女を見ると居ても立っても居られない気分になって目をそむけたくなった。しかしその時だった。

「なぁ、あんた。よくうちの面会に来てるだろ。」

 いつの間にか目を開いた彼女からの言葉にしどろもどろに答えた。

「あぁ、そうだね。毎日見に来てる。」

 すると彼女は僕から視線をそらしてまっすぐと天井を見て、いやその先にいる人を見ながら言った。

「うち、お父さんに会いたい。」

 その言葉にドキッとした。そうだ、彼女は多分この数年分の記憶をなくしているんだ。そう悟ったはいいものの、かける言葉が見つからない。

 君だったらこんな時にどうやって対処したかな。きっと嘘でも本当でもないことを言って傷つけないように伝えたよね。今度はきっと僕の番なんだ。

「君のお父さんはしばらく帰ってこれないみたいなんだ。でもいい子にしてたら会えるよ。」

 子供だましかよなんて彼女の言葉は少しだけ僕の胸に刺さった。でも気にしないふりして僕は彼女に言った。いつか彼女に言った言葉を。

「女子なら主語は私のほうがいいと思うよ。あと他人には君とかあなたとかにしな」

「それで何の用?」

 不機嫌そうにつぶやく彼女の姿を見ると、少し前の自分を見ているようだった。だから僕はなるべくあの時の彼女を思い出しながら言った。

「ただ君に空いたかっっただけだよ。クラスメイトだからね。」

 僕の発言に少し疑問を感じたのか僕の顔をじっと見た後に混乱をあらわにした。彼女の記憶は中学時代のものだとしたら僕がクラスメイトなのはわからないのかもしれない。ちょっと寂しかったけど、初めて会った時の彼女もこんな風だったのかな。

 その日はあたりさわりのない話をして終わってしまった。次の火もその次の火も同じようなことの繰り返しだった。そんなある日のことだった。

「星って興味ある?」

 僕が君に問いかけた。温かみを取り戻した君の声は耳によくなじんだ。

「私のお父さんが星のことをよく教えてくれたの。だから私も天体は好きだよ。」

 いつの間にか君は優しい話し方に戻っていて、君の声を聴くたびに僕の心は疼いた。本当の気持ちを吐露したくなった。それでも目の前にいる彼女と僕が恋した彼女は別物なんだって言い聞かせた。

「そっか。僕も少しだけ興味があるんだ。」

 どうして興味を持ったのと言いたげな彼女に、

「昔好きな人が教えてくれたんだ。」

 というと少しすねたような表情をしていたのがかわいらしかった。こんな日々がずっと続けばいいと思った。しかし、それが終わりに近づきつつあることも僕は悟っていた。僕の前で息が苦しいというたびにナースコールを押し、看護師さんが来るまで頭をそっとなでる事が何度もあった。それでももう少し続いてくれると思っていた。

 ある日、面会に赴くと受付から言伝をもらった。それは彼女の病室が移動したというものだった。そしてその病室は316だった。

 まさかと思って急いでエレベーターを使って言われた病室にかけると、先に待機していたらしい医師から病室を走るなとたしなめられた。

「彼女にはきょう一日外出許可を出すよ。お母さんは来ないらしいから君に頼んだよ。」

 鉛のように重い言葉を残して医師は去っていった。病室の扉を開けると、今日の彼女はベッドに寝ておらず、車いすに座っていた。どうやら点滴もしておらず、いつでも外出できる状態だった。僕を見るとうれしそうに笑った。

「今日は外に出てもいいんだって。せっかくだから君が好きな場所に連れて行ってよ。」

 屈託のない満月のような笑いをする彼女と真実のギャップに思わず目頭が熱くなった。彼女に見られないように車いすの後ろに回ると取っ手をつかんでいった。

「そうだね。そしたら星がよく見える場所に行こうか。」

 彼女の車いすはやけに軽くて、命の重さが感じられなかった。だから僕は冗談を言った。自分のために。

「ちょっと、重くて手が疲れそうなんだけど。」

 そういうと彼女は女の子らしく口を尖らせた。

「女の子に重いって言った~」

 ごめんごめんというと自然と口から笑みがこぼれた。その唇の端に冷たいものがふれた。

 病院を出た頃には少し薄暗くなっていた。公園までの途中、周りの人の邪魔にならないように目を配りつつも、彼女が苦しいというたびに優しく頭をなでて深呼吸させた。

「目を閉じてゆっくり吸って。少しずつ吐き出して。」

 でもその時には僕は気づいていた。彼女はずっと息が苦しいんだと。それでも時々しかそう言わないことも。

 公園に着くころにはもう夜の帳が降りていた。新月の空にはたくさんの星が瞬いていた。でも彼女が言うにはその光はずっと前の光らしい。物によってはすでに燃え尽きている星かもしれないと。

「この場所は君が好きな人と一緒にいた場所なの?」

 君をいつものブランコのところに座らせて、僕は隣のブランコに座っていた。

「そうだよ。ちょうどこんな風にね。」

 普通なら目に見えない何光年も先の光。それを網膜に焼き付けながら君は語りだした。

「私ね、好きな人がいたはずなんだ。ぼんやりとしか思い出せないんだけどさ。よくその子と一緒に星を見たような気がするの。」

 僕は一瞬胸が高まったがそれを服の下に隠して相槌を打つ。君はまたぼんやりと語りかけた。

「その子はすごい乱暴な子で、よく結果と化してる子だった。言葉も乱暴でさ。興味がないのはわかってたけど、お前とか言われたときはちょっと悲しかったなぁ。でも、私の服のこととかで差別せずに話してくれたのがうれしかったな。  それから段々と話しているうちに優しくなって喧嘩もしなくなったの。その代わりに私と星ばっかり見てたっけ。多分こんな風に並んでさ。  なんだか君の話に似てる気がするね」

 どこまでも儚く、どこまでも切なく笑う君を抱きしめたかった。それは僕なんだって言いたかった。でもどんなに胸が張り裂けそうになってもぐっとこらえた。

「確かに似てるような気がするね。」

 すると急に彼女は僕のほうを向いた。彼女の視線にドキッとしたが、気づかれなかった。

「もしできたらさ。私の好きな人に「星を見るたびに私を思い出して」って伝えてくれない?」

 君は僕にそういうと少し切なそうな表情をした。きっと本当に彼女は好きだったんだろう、その人のことが。だから精いっぱい言葉を絞り出した。

「いいよ。その人のことが見つけられたらね。」

 絶対だよっていう彼女の目はすでに星を向いていた。だから安心して僕は涙を流せた。

 僕の涙がようやく晴れた頃、君は急に顔をしかめた。

「ね…、いきが…るしいの…」

 その言葉を聞いて急いで彼女に近づくと、もうほとんど息ができていない様子だった。頭をなでていくうちにだんだん彼女が小さくなっていくような気がした。

「お…うさんにあ……いの。」

 君の耳に顔を近づけた。僕の涙が君の肩に落ちた。

「もう少ししたら会えるよ。お父さんが待ってるよ」 

 その言葉に安心したように彼女は目を閉じた。それと同時に吐息が聞こえなくなった。

 最初は安堵だけだと思った。けれどもそれは彼女をつなぎとめていたものを切ってしまっていた。そこには安らかに眠る彼女だけが残っていた。

「星を見るたびに君を思い出すよ」

 僕の誓いは満天の星空が一生覚えていてくれるだろう。

updatedupdated2024-11-072024-11-07