Henceforth

俺さ、今度入院するんだよね」

 私がコーヒーを一口飲み終えた瞬間の彼の発言に耳を疑った。勢いあまってコーヒーカップがソーサーに強く当たって大きな音がしたけど、周りを見渡しても誰もいない。そんな平日の午後の喫茶店でのことだった。

 私と彼は今となっては幼馴染と呼べる存在だと思う。小学校のころは同じクラスだったし、お互い家が近いこともあってよく話していた。片方が休んだらプリントや連絡帳を届けたり、学校終わりに互いの家で遊ぶことは日常茶飯事だった。

 中学生になるとクラスも変わったし、部活も違ったから関わりは少なかったけど、学年集会とか出会うと近況を報告するぐらいの関係だった。私は美術部に所属して女子の友達を増やしていたし、彼はサッカー部で女子からの人気を得ていたからわざわざ話すことも減っていた。

 お互い別々の高校に進学してからは顔を合わせることすら減っていった。電車の中で顔を合わせると軽く会釈するか、「最近調子どう?」「ぼちぼちかな」程度の言葉を交わす程度だった。たとえテスト前で緊張していても、文化祭の準備で徹夜明けでもぼちぼちなんだ。それに、彼に帰りの時間帯に会うといつも別の女子と並んで話していたから、余計に話すこともなかった。

 そんな私たちの関係に転機が訪れたのは大学に入ってからだった。私は県外の少し離れた国立大学で友達に誘われてボランティアサークルに入った。そこで関東圏のボランティアサークルの集まりで彼と偶然再会したんだ。

 夏休みの中日の暑い日に行われた海岸のごみ拾いの活動だった。水分補給は大事だけど、飲んだペットボトルはちゃんとゴミとして処分するようにって部長が熱く語っていたことが、痛いほど足を焼く夏日と一緒に覚えている。

 いざごみ拾いが始まると、海辺のほうで足を濡らしているグループと少し岸のほうで日陰になっている場所を清掃をするグループに分かれた。私は後者のほうで友達と暑さを愚痴りながら手ごろなごみを拾って、ゴミ袋を持った人に話しかけた時だった。

「あれ、美憂?」

「啓介?」

 そう声をかけられて初めて彼だと気づいた。それくらい高校のころとは風貌と纏っている雰囲気が変わっていた。その時には長話することはできなかったけど、ゴミ拾いが終わった後にもう一度彼から話しかけられた。

「まさか美憂がT大のボランティアサークルに入ってるとは思わなかったよ。」

「そんなこと言ったら、啓介がそっちで部長やっていることのほうが驚きだよ。」

 お互いの大学、学部のこと、サークルの活動のことを軽く話してから連絡先を交換した。それから、月に一回くらいの頻度で彼とお互いの大学の近くのカフェで話すようになった。

 その日は私が先輩に紹介してもらったカフェに読んで、私はブラックコーヒーを、彼はカフェラテを頼んだ。彼がカフェに入ってから初めて語った言葉だった。

「え、入院?」

 少し声を落として彼に聞き返したけど、彼は落ち着いた表情のまま一つうなずいた。カフェラテを一口飲んで軽く目をつむり、言葉を選びながら経緯を説明してくれた。

「もともと大学でもサッカーを続けるつもりだったのが病気のせいでできなかったって話はしたよね。」

「それは聞いたよ。でもそれは目が悪くなったからって言ってなかったっけ?」

「それはそうなんだけどね」

 もう一度置かれたカフェラテに軽く口をつけてから口を開いた。まるでカフェラテがセーブポイントみたいに思えた。

「その病気は目が悪くなる以外にも症状があるんだって。例えば、心臓病だったりね」

 市販のブドウ糖並みに軽い口調に乗せられた言葉の重みは、溶けかけた生クリーム並みに私の口に残った。ようやく言葉を理解したとたん、頭の中で聞きたい内容が洪水のようにあふれそうになり、一度深呼吸してからブラックコーヒーを一口飲んだ。それで後味はすべてなくなった。

「入院ってどれくらいの期間なの?一週間くらいならお見舞いには行けないけど。」

 口に出してから少しドライに言い過ぎたかなと思ったけど、彼のことだからきっと大丈夫だろうと高をくくっていた。そんな私の自分勝手な安心を彼の言葉は裏切った。

「多分出てこれないんじゃないかな。その、最後までさ。」

 右手の人差し指で軽く頬を掻きながら照れ笑いをする彼を見ると、チクチクと私の胸が痛んだ。その表情は小学校のころから何度も見てきた、失敗や怪我を私に言うときから何も変わっていなくて、机の下でスカートのすそをとつかんだ。

「そう、なんだ。」

 場を沈黙にしないようにとひねり出した言葉はありふれた同情に近いものだった。本当はもっとかける言葉はあったはずなのに、私の口から出たのは拙い言葉でしかないのが悔しかった。

 お互い、一度自分のカップに口をつけると今度は私から話し出した。

「大学はどうするつもりなの?」

「オンラインで参加できるものもあるから、病院から受講できないか聞いてみるつもり。まあ無理だったら退学かなぁ。」

 誰でも二言目には言いそうな当たり障りのない話題。私たちは会話のリズムを思い出すかのように、サークルこのことや、病院のことを話して、段々と慣れてきたころにようやく聞きたかったことを聞いた。

「それで、結局啓介の病気は、どれくらい悪いの?」

 彼はカフェオレを飲もうとしてカップの中に一滴もないことに気づくと、唇を軽く舐めてから語った。

「まあもって半年だと思うよ。一年は無理じゃないかなぁ。」

 窓の外で楽しそうに飛び回っている庭の鳥に目をやりながら当たり前のように言ったその言葉に抑揚はなかった。落ち葉が風で飛ぶように、セミが秋を迎えられないのと同じくらい当たり前のように。

 きっと彼はもう受け入れているんだろう。そう思って私は右手の詰めを左の手のひらに押し付けながら答えた。

「そっか。なんか私で力になれることがあったら言ってね。」

「わかった。」

 それがその日初めて見た彼の笑顔だった。それからお互い無言で席を立ってカフェを出た。別れる前に彼になるべくお見舞いに行くよとだけ伝えた。それ以上の言葉はかけてあげられなかった。

 それから二週間ぐらいしたころ、そろそろお見舞いに行けるだろうかと思って彼に連絡してみた。すると、当日中に連絡が帰ってきた。

「いつでも来ていいよ」

 その返事を受けてその日の講義が終わるとサークルに休む連絡をして、彼から伝えられていた病院に向かった。普段よりも少し早い時間帯の電車の静かさは私の心を返って落ち着かなくさせた。心配と不安と、わずかな嬉しさで。

 初めて自分の気持ちに気が付いたのは多分高校生の時だったと思う。偶然帰りの電車が一緒になったから二人並んでお互いの高校の話をしていた時だった。

「うちの高校は春に体育祭やるんだけど、啓介のところはどうだっけ?」

「こっちは秋にやるよ。だから春に文化祭があるよ。それを知らなくて高校を選ぶときに文化祭見れなかったんだけどね。」

「あんたらしいね。でも結局サッカーだけで高校を選んだんでしょ」

「まあね」

 高校に入ってから顔を合わせなくなって久しぶりに話しても中学までの居心地の良さは変わらなくて、自然とお互いの話が弾んだ。

「そういえば昔はよく美憂に頭なでてもらったなぁ」

「急に恥ずかしい話しないでよ。しかもそれ小学校の頃の話でしょ?」

 彼の脇腹を肘で小突きながら突っ込む。痛い痛いと言いながら彼が見せるのはたまに見せる昔から変わらない無邪気な笑顔。普段はクールに見せている彼からはギャップがあってちょっとだけかわいいと思ってしまう。

「ちょっと頑張ったときとか、体調崩したときになでてもらえるから、毎回ちゃんと伝えてたんだよね。懐かしいなぁ。」

「今のあんたは昔ほどかわいくないでしょ」

 確かにといいながら笑う彼の横顔を見ると頭をなでたくなってしまう。ふいに出そうになった右手を抑えるようにして、彼から視線をそらした。

「あ、啓介じゃん。奇遇~」

 急に啓介の名前を呼ばれて誰かと思ってみると、啓介の前に二人の女の子が立っていた。左胸の校章を見るに啓介の高校の人らしい。あれよあれよという間に彼は別の郷社のほうに連れられてしまった。彼女らと話している時の彼の顔が私に見せるのとは違う大人びたような、少し冷ややかさを感じる表情が目に焼き付いていた。

 電車を降りて家路につく間、ずっと胸の仲がもやもやしたような煮え切らない気持ちに悩んでいた。隠そうと思えば膨らむその気持ちが、忘れようとするほどに強くなる思いが世にいう恋慕だと気づかせたのは町中に流れる恋愛ソングだった。

 サークルで出会ってからカフェで会うように誘ったのは私からだった。最初はサークルの情報共有という名目で始めたそれは、ひそかに彼との時間を共有できる唯一の場所だった。だから会えるのは二人の都合が合うときだけ。でもこれからは私の都合さえよければいつでも会える。それがちょっとだけ、わがままな理由だけどうれしかった。

 乗換案内アプリにしたがって電車を降りてバスに乗り少しすると病院が見えてきた。古びれた建物に手入れのされていない空き地、誰も使っていない駐車場に囲まれて、やけに大きくて綺麗な建物だった。

 正面玄関から病院に入ると、バスで彼に教えてもらった通りに手続きをして面会者の札をもらった。普段はお世話になることもない大きな病院の仲は確かにきれいに清掃されているのだが、それでも隠せない悲しみのにおいが立ち込めていた。

 エレベータに乗って彼がいる病室に向かう。階数を表示する電光掲示板には階数ごとにどのような疾患の人が入院しているか書かれていた。彼がいる病室は一般病室(内科)と書かれていた。

 彼がいる病室には表札のように入院患者の名前がベッドの位置と合わせて記されていた。そこに確かに彼の名前があることを確認して、ようやく彼が実際に入院しているのだと認識できた。

 病室のドアを開けて窓側のベッドを囲うカーテンを開ける。

「啓介、来たよ。」

 開けた瞬間に目に入ったのは、薄緑色の甚平のような病院服をまとった青年の姿だった。

「思ったより早く来たね。いらっしゃいというのが正しいのかな。」

 相変わらず言葉は子供っぽいのに、その声や表情が大人びたような、どこか達観したように思えるのはその服装や環境なのか、それとも彼が変わったのかまではわからなかった。

「あんたが来てほしそうにしてたからね。それより調子はどうなの?」

「元気、という関わっていないかな。まだ精密検査してるだけで治療計画とかはこれからだからね。」

 そっかという私の声は風のように流れていった。検査、治療という言葉が彼の病気に現実味を帯びさせていく。わかっていたはずだったのに、想像していたものとは全然違うことを思い知らされていく。

「美憂は今日は大学じゃないの?こっちはまだもう一科目授業が残ってるんだけど。」

「え、これから授業受けるんだったら席を外すけど。」

 私が焦って席を立とうとすると、私以上に焦った様子で啓介が私の腕をつかんだ。

「オンデマンド授業だからいつ受けてもいいから大丈夫だよ。それより、ちょっと話そうよ。」

 彼の手の感触は筋肉質というより骨ばっているようで、おじいちゃんの手を思い出させた。不思議な安心感と紅葉が入り混じりながら、私は椅子に座りなおした。

「それならいいんだけどね。私のほうは午前授業までだったから電車で帰ってきたところだよ。でもあんたはちゃんと言ったとおりに授業を受けてるんだね。」

「病院にずっといると思っている以上に暇なんだよ。」

 はぁっというため息。彼の表情に一層悲しみが伺えた。

「本当はやりたいことがいっぱいあってもここを動けないから無理やり暇にさせられてるんだよ。終身刑ってきっとこういう気分なんだろうね。」

 今にも泣きだしそうな彼の声を聴いていたらいつの間にか私の手は伸びていた。彼の頭の上に。

 彼の丸い頭の上に手が触れたことに気づいたとき、少しためらったけどそのまま彼の頭をなでることにした。下手な私の慰めよりも彼が好きだった行動のほうが癒しになると思った。彼も嫌がるでもなく私にされるがままにしていた。

 彼の表情が少し和んできたころに自然と彼の頭から手を離した。そして二人で見合ってちょっとだけ笑った。その笑顔はやっぱりあのころと変わらなくて。

「久しぶりに美憂に頭なでてもらえた。やっぱり落ち着くね。」

「それならよかった。」

「ありがとね。」

 心から嬉しそうに笑う表情がやっぱりかわいくて、私の独占欲をくすぐった。彼がここにいる限り同年代で会えるのは私だけだ。だから私以外には見せたくない。でもそんな思いは彼にはひた隠しにした。

 それから二人でいろんな話をした。病院の食事が思った以上においしかったこと、病院のトイレに行くだけでもナースコールが必要で面倒くさいこと、家族があんまり面会に来てくれなくて寂しかったこと、病院から見た空が意外ときれいだったことを教えてくれた。いつも話していたような雰囲気だったけど、コーヒーの香りはしなかった。

「そういえば何か私にやってほしいこととかある?」

「う~ん。そうだねぇ。」

 今日一番聞きたかったことをようやく聞けた。彼は私の横の窓の外を眺めながらふっと答えた。

「ノートとシャーペンが欲しいかな。あと消しゴムも。」

 思ったより簡単な要求で拍子抜けだった。

「それぐらいならいつでも買いに行けるよ。明日とかでも持ってこれるよ。」

 少しでも早いほうがいいと思ってそういったけど、彼はゆっくりと首を振った。

「一週間後でいいよ。美憂だって忙しいと思うし、僕もやることがあるからさ。」

 少しでも彼と会える時間が増やせたらと思ったけど引き下がるしかなかった。また一週間後ね、と約束をして私は病室を後にした。またねという彼の言葉が耳に残った。

 その週の末日に私はノートとシャーペンを買いに駅ビルの中の雑貨屋さんに立ち寄った。最初は私がよく使う普通のノートとペンを買おうと思って手に取ったけど、商品棚に戻した。この前に見た啓介の様子を見ると、嫌でもこれからのこと理解させられて、もっと使いやすいものを探してあげたくなった。

 普段はただ高いだけだと思ってみていたノートも開いてみると紙質が安いものとは違っていて、書き心地が良いものなんだと知った。いくつかのノートを比べてみて、結局普段使う物の倍くらいの値段がするノートを選んだ。

 それからやっぱりシャーペンも使いやすいのがいいだろうと思って色々見てみたけど、私にはその差はわからなかった。だから彼が使っているところを想像して一番似合いそうなものを選んだ。それから消しゴムは私がよく使っている物が使いやすいからそれにした。

 結局思った以上にお金を使っちゃったけど、彼にあげるものと考えると自分のお昼ご飯を少し削るくらいで済む話なら安い話だと思ってしまう自分がいて、らしくないなってちょっと笑った。

 啓介に言われた通り、一週間後にもう一度彼の病院を訪れた。肩にかけたトートバッグの中身を思い出しながら意気揚々と彼の病室を目指してエレベーターに乗り、周りの人に注意しながら歩いた。そして彼の病室を開けようとした時だった。

 病室の扉が完全には締まっていなくて、そこから少しだけ病室の仲が覗けた。彼のベッドが窓側だったから、斜めに覗くとちょうど私の目に映った物があった。それは明らかに彼のものではない女性用のかばん。

 ぱっとドアから離すと、ふと我に返って左右を見渡した。誰も私の行動を見ている人がいなかったことを確認すると、ほっと一息ついてそっと病室の扉を閉めた。仕方なくいったん引き返して病院のエントランス近くまで戻ることにした。

 正面玄関から入ってまっすぐ進んだところにあるカフェに入ることにした。コーヒー一杯を頼んで席に着くと、いろんな志向が頭を駆け巡った。

 あのかばんは誰のものだったんだろうか。多分私と同年代くらいが使いそうな見た目だったし、やっぱり啓介の彼女とかなんだろうか。だとしたら私に変な期待を持たせるようなことしないでほしいんだけど。いや私が勝手に期待してただけかな。

 いやいやと頭を振ってコーヒーを一口飲んだ。こだわりが見られないチェーン店のカフェらしい雑味の混じった苦さが返ってちょうどよかった。目覚まし時計のアラームのように雑に私の目を覚ましてくれた。私は彼に隠しているんだし、彼は知らないうえで私を頼ってくれたんだから、私は私のまま彼に関わればいいんだ。幼馴染として。

 コーヒーをぐっと飲み干すと一息ついて店内を見渡した。小さな店内でいろんな人が少しの安らぎを求めて集まっているようだった。私世代の人もいるけど、親世代やその上の世代の人もいて、皆が片手にコーヒーカップをもってどこか遠くを見ているようだった。多分その視線の先にあるのは各々の悲劇だ。

 そろそろ行くかと思ったときにちょうど店の外を歩いている女性が目に入った。私と同年代で少し厚手の化粧に控えめながら派手な服装は確かに目を引いたけど、私の興味をそそったのはそれではなく、彼女の持っているかばんだった。見間違えようもない啓介の病室で見たものだった。

 啓介ってこういう子が好きなのかな、彼女に比べれば地味に見える格好の私は彼の眼中にないのかな、なんて思いながら彼女とすれ違うようにして彼の病室に向かった。

 今度は病室の扉がしっかりとしまっていた。ゆっくりと開けて病室に入ると、西日が私の足元に広がってきた。ゆっくりと病室に入ると、前来た時と変わらない悲しみのにおいが広がっていた。

「啓介、久しぶり」

 彼のベッドのカーテンを開けるとぐったりとベッドに横になっている啓介がいた。カーテンが開いた瞬間こわばったように見えたけど、私を見たらまたベッドに体を預けた。

「大丈夫?つらいなら私は帰るよ?」

 疲労が伺える彼の顔を見ているとそんな言葉が口から出てきた。でも彼は枕に頭を乗せたままゆっくりと首を振った。

「僕は大丈夫だからちょっと話そうよ。」

 そういいながらも、彼は言葉を口から出すだけで精一杯な様子だった。見るも可哀想な彼のためにも、私は彼に椅子を近づけてなるべく彼の負担を減らしながら話した。

「さっき病院に入ってるカフェでコーヒー飲んだよ。結構いろんな人が来てて面白かったよ。」

「またカフェめぐりしたいね。」

 小さく話す彼の声を聞き洩らさないように拾いながら私が多く話すように心がけた。私の大学の講義が急になくなった話とか、そのせいで移動時間のほうが講義時間よりも長くなった話とかそんな話を読み聞かせするみたいに話した。そのたびに彼は目を細めて小さく笑った。

 彼の顔に血色が戻ったころに私は聞きたかったことを彼に聞いた。

「今日はやけに疲れて見えるけどなんかあったの?」

 私の言葉を聞いて彼は小さくため息をついた。これは大学生になってから知った彼の愚痴が始まる合図だった。

「今日はちょっと騒がしい人が来てて少し気を張ってたから疲れたんだよ。」

「確かにあの子はちょっとうるさそうだもんね。」

「あれ、もしかして見てた?」

 彼のきょとんとした表情を見てしまったと思って適当に取り繕うことにした。

「たまたまこの病室から出てくる人が見えたからね。」

「そっか。まあこんな愚痴を言うのもおかしな話だと思うんだけどさ。」

 私のことを疑いもしない彼の様子に少し安堵を覚えながら、彼の次の言葉を待った。

「わざわざ来るくらいだから僕に好意があるのかもって思うと幻滅させたくなくて気を張っちゃうんだよね。ありのままの姿を見せて嫌われたらどうしようって思っちゃってさ。」

 風に舞った桜のような彼の声にうっとりと耳を傾けていた。綺麗の中に儚さと寂しさが混じっていた。でも桜と違うのは触れられることだ。

 いつからだったのか二人ともわからないくらい、彼の頭をなで続けていた。その間ずっと彼は私にされるがままにしていて、嬉しそうに笑う彼を見ていると同い年なことを忘れそうになってしまう。

「でもその様子だと私には気を使わなくていいみたいじゃん?」

 私が冗談めかして言うと、無邪気にな笑顔を絶やさずまっすぐに私の目を見て彼は言った。

「だって美憂は幼馴染だから僕のこと何とも思ってないでしょ。それに僕のこと昔から知ってるからかっこつけようとしたらばれちゃうじゃん。」

 少しだけがっかりしたけど、それでも茶化すことを優先した。

「まああんたは昔から分かりやすいからね。それに、気楽にできるならそれでいいんだけど。」

 にこにこと笑う彼の表情が網膜に焼き付くようだった。そしてその笑顔は自然と私にも移って、子供のころを思い出すようだった。

 幸せな時間を堪能してそろそろ病室を後にしようとしてトートバックを持って思い出した。

「そういえば啓介に頼まれたもの、買ってきたけどどこに置いておいたらいい?」

 バックからノートと筆記用具を取り出すと、彼はベッドの隣の机を指さしたので引き出しにしまった。

「じゃあ、そろそろ私は帰るね」

 そういって立ち去ろうとすると、彼は少し寂しそうにしていった。

「次はいつ来れる?」

 大学の講義予定を思い出しながら再来週だったらこれるよというと、待ってるねと言ってカーテンを閉めた。それを見届けてから私は病室を後にした。

 それから数か月の間、二週間に一度くらいずつ彼の病室を訪れた。この日以来疲れ切っている彼を見ることはなかったけど、徐々に弱っていく彼の姿は見ているだけで泣きそうになった。何かしてあげたくても何もできないから、時々彼に頼まれることをこなしながら彼と話す時間を増やすしかできなかった。

 ある日、私の携帯電話に見慣れない番号からの着信があった。大学の講義を受けている最中だったからあとで折り返そうと放置しようと思ったが、三回目の電話で応じることにした。

「もしもし?」

「もしもし、啓介の母ですけど。いつも啓介がお世話になってます。」

 子供のころに何度か聞いたことのある啓介のお母さんの物腰柔らかな声だった。ただ、私が記憶しているよりは少し声に元気がなかった。

「こちらこそお世話になってます。どうかなさいましたか?」

「美憂ちゃんも大人になったわね。それで、啓介の容態があまりよくないから、申し訳ないんだけど少しだけ顔を見てやってくれないかしら。」

 頭を辞書の平たい部分で殴られたような衝撃が走った。確かに少しずつ弱っていたけど、まさかという気分だった。手から落ちそうになったスマホをつかみなおして答えた。

「もちろんです。すぐに行きます。」

 電話が切れるのを確認すると、荷物をひっつかんで講義室を後にした。周りの人からの視線を振り払うような気持で早歩きで教室棟を後にした。歩いている間、古びた写真のように色を失ってみえた。道行く人の声もずっと遠い昔のことのように感じられた。

 無意識で行けるほど慣れた道を再確認しながら啓介の病院の前までたどり着いた。この前まで啓介に会える場所は、今では人を飲み込む悪魔のように私の目には映っていた。頬を軽くひっぱたくと正面玄関に足を踏み入れた。

 面会の手続きを済ませて病棟に向かおうとしてカフェを通りかかった時に声をかけられた。

「もしかして美憂ちゃん?」

 さっきの電話と同じ声がしたほうを振り返ると、カフェの席に腰を下ろしてコーヒーカップを手にしている淑女がいた。手招きされるがままに向かい合う形に座ると、先に相手が口を開いた。

「授業中だったのにわざわざ来てくれてごめんなさいね。」

「いえいえ、それより啓介の状態はどうなんですか?」

 すると、コーヒーカップに一度口をつけてから話し出した。その様子にカフェでの啓介との日々をほうふつとさせるものがあった。

「今日のところはまだ落ち着いてるわね。ただいつどうなってもおかしくないとは言われてるわ。」

 思わず視線が下に下がっていく。目を上げてしまえば見たくないものが写ってしまう。そんな様子を見かねてか、啓介のお母さんはコーヒーカップの中身を飲み干すと私の肩に手を置いた。

「今日のところは大丈夫よ。それに啓介も美憂ちゃんに会いたがってると思うわ。」

 そうだといいなぁ、なんて希望を抱きながら啓介のお母さんに連れられるがままに啓介の病室に向かった。ちらっと眼を見てからついていく形で病室の中に入っていく。そこは季節を感じさせない作りで、相変わらず悲しみのにおいが立ち込めていた。

「啓介、美憂ちゃんが来てくれたわよ。」

 そういってカーテンを開けた瞬間、私の目に映ったのは二つの点滴につながれてベッドに横たえている青年の姿だった。

「美憂、こんな早い時間に来てくれてありがとうね。でもちゃんと講義は受けるんだよ?」

「わかってるわよ。でも講義よりあんたのほうが」

 といったところで派っと口をつぐんだ。急いで取り繕わないとと思っていると、啓介のお母さんが割って入った。

「あんたも、せっかく来てくれてるんだから失礼のないようにするんだよ。」

「わかってるよ。それよりさ。」

 あまり聞きなれない啓介の強い語気にちょっとびっくりしたけど、何かを察したように啓介のお母さんは病室を後にした。何が何やらわからないまま、いつものようにベッドの隣の椅子に腰かけると啓介のことをよく見てみた。

 あの頃に比べればすっかり痩せ細った四肢は骨と皮が張り付いて見えて、老齢の人のそれにも見えたけど、肌がきれいな分余計に細さが際立って見えた。二本の点滴はどちらも左腕のひじの部分に刺さっていて、その部分が見えないように包帯が蒔かれていて、痛々しさを醸し出していた。清廉さを醸し出す病院服は今では啓介の体には少し大きすぎた。

「その、調子はどうなの?」

 聞かなくてもわかるはずなのに聞かずにはいられなかった。でも返ってきた答えは私が予想していたものとは違った。

「そんなに悪くないよ。点滴二本につながれてたらそうも見えないけどね。」

 口を開いて無理に笑い声を出す彼の顔は明らかに引きつっていて、私はどうしようもなく唇をかんだ。それを見てたたみかけるように啓介は口を開いた。

「それより美憂のほうはどう?ボランティアサークルは最近何してるの?」

「私は変わんないよ。サークルはゴミ拾いから枯葉集めとかが多くなってきたかな。今度は駅前を合同で掃除するらしいよ。」

 少し大きめにリアクションしながら自虐交じりに話をする彼の姿は確かに普通の人なら心奪われるものがあった。ただ、普段は私に見せない彼の態度は私にとっては見るに堪えないものだった。だから私らしくないと思っても、私は行動を起こした。

「ねえ啓介、あんた前に私に言ったよね。私には気を使わなくてもいいって。」

 ちょっと真面目そうな顔をしてうなずく彼に私は優しく語り掛けるように言った。

「今日、あんたがずっと無理してるの私にはわかってるんだからさ。そんなことしなくていいんだよ。だってあんたの前にいるのは私なんだから。」

 そういって彼の頭に手を置いた。途端にブワット啓介の目から涙がこぼれ頬を伝った。啓介が病院服の袖で拭おうとしても、どんどんあふれ続けた。必死に抑えようとする啓介を見て、自分で見大胆だなと思いながら彼の頭を胸に抱いた。

「今だけは泣いてもいいんだよ。我慢しなくていいんだよ。」

 彼は私にされるがまま、私の胸に顔をうずめて感情を溢れさせた。いつの間にか彼の手は私の背中に回されていて、子供がお母さんに泣きついているような姿勢で、少しだけ私の口元をほころばせた。

 私の冬物の厚手の服を超えて下着が少し濡れた頃にようやく彼の涙は止まったみたいだった。嗚咽も落ち着いていたからそろそろかなと思ったけど、なかなか彼は私から離れようとしなかった。

「ねえ、いつまでくっついてるつもり?」

 そういうと、ぱっと私から離れて彼の顔が目に映った。そこにあったのはあの頃の笑顔だった。

「だって美憂に抱きしめられると心地よかったんだもん。」

 その言葉に殺気の行動を再確認させられてポット顔が熱くなった。落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせて彼の顔から視線を外した。

「まあそれならいいけど。」

 それから十分くらいの間のんびりといつものように現状を報告しあった。やっぱり啓介のお母さんが言った通りの状態であることを改めて告げられた時は苦しかったけど、啓介自身はそこまで重く受け止めてなさそうなのが少しだけつらかった。でもそれは彼の本音だと私には感じた。

 段々と枯れの疲れがあらわになって起きているのもつらそうにし始めた頃に、ちょうど啓介のお母さんが戻ってきた。私と啓介を交互に見た後に、私の耳元にささやいた。

「啓介も疲れてるみたいだから、今日のところは。」

「はい、ありがとうございました。」

 私がそう答えると、今度は啓介に向かって言った。

「そろそろ美憂ちゃんも帰るみたいだから、最後くらいシャキッとしなさい。」

 そういわれた啓介はぐずる子供のようにだらっとしながらもベッドから起き上がった。それを見て私は手を振りながら彼に別れを言った。

「じゃあ、またね。」

「うん。じゃあね。」

 そういうとまたベッドに体を預けた。それを見て啓介のお母さんはため息をつきながらも、私を先導して病室の外に出た。私を病院から送り届ける途中で啓介のお母さんが口を開いた。

「あの子はお見舞いに行くたびに美憂ちゃんの話をするし、今日もお医者さんからそういわれたときに真っ先に会いたいって言ったのよ。」

「そうだったんですね。」

「あの子に浴してくれて本当にありがとう。」

 そういって深々とお辞儀する姿に私は急いでかぶりを振った。

「そんなことないですよ。私にとっても大事な幼馴染ですから。」

 そういうと嬉しそうに笑いながら私に別れを言って病棟のほうに戻っていった。私も正面玄関から病院を出た。相変わらず悲しみのにおいに満ちた病院を出ると、北風の吹きすさぶ冬空が燦燦と輝いていた。

 それから一週間たったころに、また啓介のお母さんから電話がかかってきた。そこで私は啓介がこの世を去ったことを知った。最後は華族に囲まれて笑顔だったから、最後にあの子の顔を見てやってほしいといわれた。その言葉に私は涙が出ることはなかったけど、何か心の活動力みたいなものが失われたように感じた。

 正直彼のお葬式のことはあんまり覚えていない。棺に横たえられた彼は確かに穏やかな笑顔を浮かべていて、それを見た瞬間に初めて涙があふれてきた。そのあとは最後まで続発的にあふれる涙を抑えていただけだった。

 帰り際に啓介のお母さんからこれをと言って渡されたのは私が啓介に買ってあげたノートだった。でも少しの間私はそれを開けずにいて、机の上に埃をかぶらないように保管していた。

 春一番が吹いたという報道がされて、ようやく冬の終わりが見えてきたころになって、ようやく私は啓介を失った悲しみが落ち着いてきた。乗り越えたと言ったら別れてしまいそうで、落ち着いたんだと自分に言い聞かせていた。

「そういえば何が書いてあったんだろう。」

 私の持つ度のノートよりも高級なそのノートの表紙に手をかけた。興味と不安が入り混じりながら開いてみると、そこには彼の文字でやりたいことリストと大きく書かれたページが広がっていた。

美憂と阿蘇に行く。 美憂と浜松に行く。 美憂と一緒に映画を見る。 美憂と一緒に水族館に行く。

 いくつも並んだ項目のほとんどには私の名前が最初に書いてあった。私の困惑に対しての答えは次のページに書かれていた。

 それは日記形式になっていたけど、日付は飛び飛びだった。一週間おきだったり三週間ぐらい書いてなかったり、不規則だなと思ったけど、どれも私が彼のお見舞いに行った日だった。

「今日は美憂に頭をなでてもらえた。優しく甘やかされてる気分で気が抜けちゃう。」

「今日は少し疲れたけど、美憂にあったら元気が出てきた。でも美憂にはただの幼馴染って思われてるのが少し悲しかった。」

「今日はかっこつけようと思ったけど、結局ばれたし泣かされちゃった。やっぱり美憂には隠し事ができなかったけど、抱きしめられた時はすごいドキドキした。」

 いくつっも続いた日記の最後には、彼からのメッセージが書かれていた。

「美憂へ  これを読んでる頃には僕は多分死んじゃってるんだろうね。でも、大学に入って美憂に出会えて、入院してからも美憂が合いに来てくれたから僕としては全然よかったんだ。  意気地なしの僕だから君に思いは伝えられなかったと思うし、ここで書くのは今更だから言わない。その代わりにお願いを聞いてくれないかな。  このノートを僕だと思って、最初のリストをできるところまでやってほしいです。其れで感想をこのノートの余白に書いてくれたら、きっと僕にも伝わると思うんだ。」

 涙でノートを濡らさないようにしながら、私は彼に、空に誓った。華の香りが私の部屋に立ち込めようとしていた、そんな春の訪れを感じる日だった。

updatedupdated2024-11-072024-11-07