「答えて」
ギターの余韻の後、ささやかな拍手と涙ぐむ声が辺りに小さく広がった。それぞれ持ち寄った椅子、と言ってもプロパンガスボンベだったり家のがれきだったりを持って広場を後にしていった。聴衆が去ると、僕はギターの手入れをしている君に声をかけた。
「そういえば今日はいつもの子来てなかったよね。」
「昨日も空襲があったからな。」
僕のほうは見向きもせずに君は答えた。そして木目がきれいに見えるアコースティックギターをところどころ焦げ付いた黒のケースに入れて抱え、僕の前を歩いた。
あの日、僕らの日常はまるで崖から落ちるかのように変容した。学校のテレビが急についたかと思えば、耳障りで耳に残るチャイムが町に、日本中に鳴り響いた。そして目を奪われるような漆黒のスーツに身を包んだキャスターがニュースを読み上げたのだった。
「非常事態宣言が発令されました。」
それから僕らの生活は国という見えない何かのために蝕まれていった。お父さんが家に帰ってこなくなり、教員がいなくなり、食事はいつも変わり映えしない少し足りない献立になった。少しずつ変わる物事に慣れていこうというとき、空襲が町を襲った。
初めての空襲の時、隣町までお母さんと一緒に逃げた。訳も分からず制服に学校かばんを背負ったまま逃げた先で音を頼りにギターを調律している君に出会った。
多分当時の僕は少し混乱していて、何かに気持ちをぶつけたかっただけだったんだと思う。目の前に悠長に楽器をいじっている君に僕は毒をついた。
「よくそんな重い物をもって逃げれたね。」
「これだけが唯一の家族だから。」
長い黒髪に阻まれて表情は見えなかった。でも声音からほんの少しの怒りと、果てしない諦めが感じられた。
それから、三回目の空襲の時にお母さんはいなくなった。ラジオ放送を聞いて逃げたほうがいいと僕は言ったけど、サイレンか飛行機が見えたら逃げたらいいよといったお母さんは防空壕に来なかった。その時も君は防空壕の中でギターをいじっていた。
調律を終えたギターで童謡を弾き始めた。小さく歌う君の声に重ねるように僕も歌っていた。その声はだんだんと防空壕中に広がっていくと、君は少しはにかんだ。その時に見えた君はどこか透き通っているような気がした。
曲が終わると君のほうから僕に話しかけてきた。
「今日は一人なんだ。」
「後から来ると思うんだけど。」
どうだろうね、と投げ捨てるかのように言った。それから付け加えるように
「私の家、君の隣だから来たかったら来てもいいよ。」
と言った。その前の言葉にむしゃくしゃしていた僕は返事をしなかった。
そのあとのことはよく覚えていない。雨がしとしと降る中で帰ると、家が半分亡くなっていて、お母さんの姿も見つからなかった。気が付いたら隣の家にいた。
それから僕たちは昼間は学校でよくわからない文章を暗唱させられたり、防空壕を掘ったり、配給の料理の手伝いをさせられ、夕方になると広場で一緒に歌を歌った。最初は一人二人の同級生だった聞き手は、十を超えて親や教師も混じるようになった。僕はだんだんと大きくなるこの舞台が好きだったけど、君は人が増えるたびに少し寂しそうな顔をした。
君の後ろを歩いているとパラパラと雨が降り出した。それに気が付くと君は防空壕に逃げるとき並みに走り出したので、必死に追いかけた。空襲で焼けた町に雨が降ると空気が洗い流されるように綺麗になるから、大きく息を吸った。
家についてラジオを聴きながら配給の食事を二人で分け合った。ラジオは何度目かの空襲部隊の位置を知らせていた。
「いつまでこんな生活が続くんだろうね。」
僕は塩の瓶をサツマイモか何かに振りかけたが残っていなかった。
「さあね。私たちがどうしたって終わりっこないんだからさ。」
君はその何かを橋でつまんで小さく頬張った。
「こんな世界、大っ嫌いだね。」
そういうと残っていた部分も一気に口の中に押し込んだ。怒りや悲しさを通り越した諦めの混じった嫌いだった。
少しでも雰囲気を明るくしようと、僕は違う話題を探した。ラジオでは今日が七夕の日だったと言っていた。
「もしさ、願い事が叶うとしたら何を願う?」
「正しい子供ならこの国が勝ちますようにって祈るんだろうけどね。私はちゃんと両親にさよならを言いたいかな。」
まあ叶うわけもないんだけど、と君は君の話をかき消した。ラジオではまた別の空襲部隊の場所を読み上げていた。
次の日、雨上がりで町の空気は澄んでいた。がれきの山が一つ二つ増えていたと思う。地面には吐瀉物のような色をした液体がどこかに流れていた。上流をたどるように君と二人で学校に行った。
その日は男子は穴掘りだった。校庭のまだ誰も埋まっていない場所にちょうど人が入ったら目から上が出るくらいの深さあの穴をたくさん掘った。そこに下級生が死んだ人を入れて埋めていく。空襲があった次の日の決まりだった。そこにいつも聞きに来ていた子の姿もあった。
穴掘りが終わるとそのまま下校となった。僕はいつものように広場に向かうと、先についていた君がギターを準備していた。僕に気が付くと、顔を上げることもなく聞いてきた。
「今日は穴掘り?」
「そうだね。そういえばあの子も入ってたよ。」
少しの沈黙の後、「そっか」と君の儚げな声が浮かんで消えた。
いつも最前列で聞いていたあの子がいなくなっても聞きに来る人は増える一方だった。それでも君の顔は涼しげなまま、ギターを抱えて僕の隣に座った。
頃合いを見て君が引き出したギターに合わせて僕は声を乗せた。僕は呑気に少しでもこの歌を聞いている人が癒されたらいいなと思って歌っていた。だからラジオを持ってくるのを忘れていたことに気が付かなかった。
錆に向かって気持ちよく歌いだした瞬間、いつものサイレンが鳴りだした。ギターも歌もかき消すように鳴り響いた警報の音に聴衆は一目散に防空壕に向かって逃げ出した。僕もそれを追いかけようと思ったけど、君がギターをケースに入れているのをじれったく見守っていた。
ようやくギターがすっぽり隠れたのを見て、防空壕のほうに踵を返した瞬間、後ろのほうで焼夷弾が投下され始めた。
「逃げるよ!」
そういって君の手を取り防空壕まで走った。一瞬を無限に引き延ばしたような時間を駆け抜けている途中で、急に君の体がふらついた。はっとして横を見ると、頭の僕とは反対側の部分から血を流していた。それを見て足が竦んだ僕を君が叱った。
「逃げるんだよ!」
その言葉に後ろ髪をひかれる思いで防空壕まではいると、すぐに君を壁に寄りかからせた。そして肌着を脱いで力任せに引き裂くいて、君の頭にきつく縛った。
「今、向こうの人たちに伝えてくるから。」
奥のほうに行こうとする僕の裾が勝手に振りほどけそうな力で引っ張られた。
「これ、大事にして。」
そういって隣に立てかけてあるギターを指さした。僕は深くうなずくと奥にいる人たちに声をかけた。彼女のことを伝えると、応急措置をするからと言って彼女を防空壕の奥のほうに運んだ。僕の粗雑な包帯の上に、よりしっかりとした布がきつく巻かれ、怪我のないほうの頭を下に寝かされた。
結局その日の空襲が終わった後も君は目を覚まさないまま、病院に運び込まれた。君のいない家で一人、ラジオを流しながら夜が更けるのを待っていた。
ふと、君のギターをケースから出してみたくなった。今日の空襲でさらに焦げた部分が増えたケースはいぶしたような香りが漂っていた。それでもケースを開けると、傷一つないように見える大きなギターが姿を現した。それと同時に、蓋のほうから小さな紙がひらひらと舞った。
床に落ちたそれを拾い上げると、綺麗な丸文字がメモ帳に書き込まれていた。
「私が私でいるために」
その文字を見た瞬間、急に涙が込み上げてきた。初めて会った時のこと、初めて一緒に防空壕で歌ったときのこと、君の願いの話、それらが一気に頭を駆け抜けて、一つだった雫は幾重にも重なって皮を作った。
いつの間にかこんな日常に慣れてしまった僕と違い、君は戦争が始まる前の自分を保とうとしていた。それでも崩される現実を見て諦めることで自分を守っていたんだと知って、自分の弱さが身に沁みるように感じた。
「応えて…。」
君の名前を呼んでも返事はない。ただ、孤独の中で昨日の君の姿が目に浮かんだ。悲しさだけが部屋に木霊し、君の諦めの言葉が聞こえるような気がした。
君の幻影を振り払うように首を左右に振って、ギターをケースから取り出した。思った以上に重いギターを抱えると、ストラップを首にかけた。そして、君の真似をするように弦をはじいてみたが、当然メロディどころか和音にすらならない。それでも、今の僕にとっては十分だった。
でたらめにギターを弾きながら僕は歌った。心の奥底から出た言葉を、ただ無意味な旋律に乗せて。
「嫌いじゃないな」
何度雨に打たれようと、僕の声がかれようと歌い続けようと誓った。まだこの世界は終わらないから。