四話目

 ここ二日間でいろんなことが起こりすぎたせいで、家に着くと疲労が限界を迎えた。勉強机の前に座って勉強しようとしてみても、美雪の冷たい視線や俊の言葉が脳裏を何度もよぎる。

 ここ数日で恋人には振られ、仲の良かった友人からは拒絶された。流石に心に来るものがあるけれど、どれも自分が蒔いた種なんだ。誰のせいにもできないこと。

 少し昔、半年ほど前だったら勉強なんてしないで、こんな時はゲームをしてたんだろうな。ちょっと過去に入り浸るような気持でパソコンの電源を付けてみた。ヘッドフォンをするとき着慣れた起動音が頭に響く。

 ディスプレイに画面が表示されるや否や、無意識のうちにいつものゲームを起動させていた。画面が付いて近代感のあるポップなBGMは流れ始めると、どこからか声がした。

「今日は勝ちたいね」

 あぁ、そうだ。このゲームは俊と一緒に何度も遊んだFPSゲーム。音楽や効果音だけで俊と遊んだ記憶が頭に浮かんでくる。

「人と遊ぶのってこんなに楽しいんだね」

「これからも一緒に遊ぼうよ」

「大丈夫、今日は勝てるって」

 通話先から聞こえてくる俊の声が何度も呼び起こされる。あの頃は楽しかったな、俊と遊ぶのも悪くはなかったような気がする。

「遅いよ」

「なんで連絡くれなかったの」

「もうちょい早かったら一緒に遊べたのに」

 ゲームを始めようとすると、最近の俊の声がよみがえる。私が連絡しなかったり、一人で練習しようとしていてよく怒られた。あの頃からちゃんと連絡しておけばこんなことにはならなかったんだろうか。今ではもうわからない。

 ゲームを始めるボタンを押そうとしていたけど、ゲームを閉じることにした。このゲームは俊との記憶が詰まっている。遊ぼうとすればするだけ心がつらくなるだけだ。

 代わりに起動させたのは、最近遊んでいなかったあの退廃的なRPGゲーム。レベリングも中途半端でほ打ったらかしになっているけれど、今日中にストーリーを進めてしまおうかな。もうレベリングをすることもないだろう。

 そう思って進めようとしたけれど、戦闘の勘が鈍っているのか、最初の中ボスで躓いてしまった。それに、このゲーム特有の心をえぐるようなキャラのボイスが今は耐えられなかった。昔なら演出の一つ程度にしか思わなかったのに、私に直接言われているかのような気分だった。

 パソコンを閉じてこれから何をしようかなと思った時だった。

ガチャ

 家の扉が開けられる音がした。強盗かと思い息を殺して次の動作を待つ。スマホを手に取って110番通報の用意をしていると

「晴翔、今すぐ夕飯出して」

 久しぶりに聞いたお母さんの声。連絡もよこさず家に寄り付かなくなったあの人の登場に、私の心は180度転換した。

「級に帰ってきて大声出すんじゃないよ。最近帰ってこないから夕飯の支度ないし、今から準備するから、風呂にでも入ってたら」

 たしなめるようにあの人に言うと、キッチンのほうに向かった。玄関に立っているお母さんの顔を見て、私は文句を言う。

「まさか、もう飲んできたの?」

「仕方ないでしょ。全部あの人が悪いんだから」

 そのあともぶつくさと中国語で文句を言った後、靴も服も脱ぎっぱなしでお風呂にいった。なんであんな人が私のお母さんなのやらと思いながらも、冷蔵庫を開けて残された食材を確認する。残っているのは最後に買った麻婆豆腐だった。

 中華料理にはうるさいあの人だけど、酔ってるならレンチンだけでばれないだろう。そう願って、表示時間より少し長めにレンジで加熱した。あとは昨日の残りの白米もレンジにかけてお皿に盛りつけるとあの人の席に置いておいた。

 それにしても、久しぶりにこの時間に家に帰ってくるなんて思わなかった。すでに酔って帰ってくるとは思わなかったけど、お金だけせびれれば十分だ。あの人が出てくるまでに自分のカップ麺も作っておこう。

 ちょうどあの人が出てくるときにカップ麺が完成したので、自分の席に置いた。久しぶりに親子での夕飯。もともと私はカップ麺生活だったけど、学校に復帰して数回は一緒に食べた。でもそれもだいぶ前のことだ。

 私の前に座ると、何も言わずに麻婆豆腐に手を付けた。食べるなり

「あんた、これ買ってきたでしょ。麻婆だけは許さない」

「別にいいでしょ」

 お酒に酔っていたら大丈夫だろうと高をくくった私が悪かったかな。対面でぶつくさと文句を言い続ける。わずかに聞き取れたのはあの人の味が何とかと言っていたような気がする。

 しばらくして、思い切って切り出した。

「お母さん、そろそろ食費ちょうだいよ。もうこっちはお金がないんだからさ」

 紅潮した顔に嫌な笑いが浮かぶ。まさかと身構えたけど、想像とは違う返事だった。

「お金ね。それぐらいいくらでもあげるわよ」

 そういうと、椅子の下のカバンからお財布を引っ張り出して一万円札を私の前に置いた。

「これだけあれば十分でしょ」

「え、くれるの?」

 普段なら数千円すらケチってなかなか渡さないのに、こんなにあっさりくれるとは思わなかった。これだけあればかなり楽に過ごすことができる。

 お母さんはお金についてはそれ以上言うことなく、ただ麻婆豆腐を食べ終えるとすぐに寝床に入った。不可解極まりない行動だけど、お金がこれだけもらえたんだから良しとしよう。

 一人お皿を洗いながらテレビのニュース番組を眺める。連日芸能人の不倫ニュースが取り沙汰されているのは、きっとこの国が平和な証なんだろう。

 その日は結局少し勉強した以外は何をするでもなく布団に入った。当然のように電気をつけたまま。

 次の日もいつものような朝が訪れる、と思っていた。朝起きていつものように支度をする。六時になったからお母さんを起こしに行こうと思ってあの人の部屋の戸を開ける。

「朝だよー!!」

 今日はいつもの中国語は怒鳴り帰ってこなかった。不審に思って電気をつけてみると、そこにはあの人の姿がなかった。

 一瞬連れ去りや誘拐を疑ったけど、kと会えは一瞬で分かった。布団をめくると、一枚の紙きれが出てきた。そこには拙い日本語でこう書かれていた。

「数日間帰れない」

 普通なら慌てたり警察に届け出たりするかもしれない。しかし、ここ一か月近くまともに家に寄り付かなかったあの人のことだから、置手紙があるだけましに思えた。部屋の扉を閉めると、主のいない布団は眠った。

 まあ起こす時間が短縮できたと思って学校の支度を進めた。今日も美雪たちは来ないだろうから一人での投稿になるのだと思うと、少し気持ちが参る。それでも彼女たちとの約束だから学校を休むわけにはいかなかった。

 マフラーを巻いて手袋をして棒缶バッチ理の格好で玄関を開けたけれど、一歩踏み出したときにはすでに学校に行く気力が半分近くそがれた。今年一番と言われる冷たい風が服の隙間を通り抜けては体温を奪っていく。ちらちらと目に映るのはどうやら雪らしかった。

 雨よりも遅く落ちてくるし軽いので傘はささずに学校まで行くことにした。家に引きこもっていたら見ることができない雪が見れたと思えば、高校まで行くのもそんなに悪くないような気がした。

 昨日よりは少し急いで高校に来たので、昇降口もまだ雪崩にはなっていなかった。教室に入って荷物を置いて隣の席を見る。今日もホームルームまではこの席に帰ってこないんだろう。

 マフラーと手袋を置いて教室を出てトイレに向かった。今日も部活があると思うと湯鬱になる。また俊と顔を合わせないといけないし、大会に向けてどんどんこき使われるようになった。とはいえ、自分で踏み入った場所だからせめて筋は通さないと。

 廊下を歩いている時、一瞬燈子らしき人物を見かけた。こちらに気づいている様子はないので、なるべくわからないように人影にまぎれながらトイレに向かう。よく見ると、燈子の傘下の連中もいた。誰も私に気づきませんように、と祈るばかり。

 用を足して教室に戻る。さっき燈子が近くにいたからちょっと警戒する。ただもうホームルームも近いので何かをしてくる時間はないはず。私もホームルームに遅刻しないように急いで教室に戻った。

 後ろの扉から自分の席に一直線で向かう。ふと自分の机の上が更地担っていることに気が付いた。マフラーと手袋、確かここら辺に置いていったはずなんだけど見当たらない。どこに行ったんだろうか。

 チャイムとともにホームルームが始まったけど、一切耳を傾けることなく棒缶セットを探した。机の上、引き出しの中、自分のリュックの中どこを探しても見当たらない。確かに今日はつけてきたはずだし、トイレに行く前に置いておいたはず。不安になりすぎて隣の美雪の机も見るけど当然なかった。

 いつの間にかホームルームは終わった。急に騒々しくなる教室でそのことを知らされた。この時期大切な防寒具をなくしたことで私の焦燥がパニックに変わろうとしたとき、背後から急に声をかけられた。

「私の可愛い晴翔さん。もしかしてこれをお探しで」

 声とともに目の前に現れるのは今日つけてきたはずの手袋だった。しかし、私はそれをつかみ取ることができなかった。それ以上の恐怖にとらわれていたから。

「やっぱりこれはいらないのかしら。じゃあ捨ててこようかしら」

「待…って…」

 精一杯絞り出した声はかすれて消えかかる。それでも予想通り"彼女"は振り返った。

「せっかくかわいがりに来たんだもの。でもあなたがこっちに来ないとだめ」

 焦点の合わない目で燈子とそのお連れたちが教室を出ていくのを追いかける。無情にも彼女は行先すら伝えずに出ていった。

 手で椅子をつかみながら、震える足で立ち上がる。壁を支えに燈子が出て言った道を追いかけていく。彼女が行きそうな場所なんて一つしかなかった。

 今からあの場所に行ったら絶対に授業には間に合わないだろう。それでも彼女らから取り返すにはそれぐらいしか方法がない。だから私は同級生の視線を無視して女子バスケ部部室に向かった。

 階段を下りて体育館への中通路を伝う。ところどころに燈子が残したであろう赤い毛糸が落ちていた。一本つまむと手慣れた手触り、ふっくらとした弾力のある合成繊維だ。意外にも頭は整然として当然といえば当然かなんて考えた。

 体育館前まで来て足が竦んでしまった。ここから体育館の裏側まで歩かないといけないのに。あの日々が頭に浮かぶ。目に浮かぶ涙と止まらない吐き気。心の悲鳴に、壁を背に座り込んでしまった。

 結局マフラーも手袋も取り返せなかったなぁ。でもこれ以上はもう体が動かないし仕方ない。

「意外と頑張ったじゃない」

 ふいに聞こえた声は耳にねっとりと余韻を残す。それが消えいらぬうちに、別の甲高い声が聞こえる

「賭けは燈子の勝ちじゃん。やっぱ一番晴翔のことを知っているだけはあるね」

「もうちょっと進んでいたら私の勝ちだったのになぁ」

 何の話をしているのだろうと耳を澄ましていると、ふいに赤い布切れが視界をふさいだ。それを見た瞬間に一つの落胆が私の心に沈んだ。

「私たちで賭けをしてたのよ。それぞれがこの毛糸を落として、どこまであなたが歩けるかってね。でもやっぱり私の見立て通りね」

 急に私の顔にマフラーだったものが当たる。あの柔らかいぬくもりを期待していたが、あたったのは嫌なぬめりけと霊のような冷たさだった。

「あんまりいたぶるのも好きじゃないから、それは返してあげる。私達特製の液体に漬けておいてあげたから堪能して」

 燈子の嫌な声を頭からかき消すように頭をぶんぶん振るう。何とかマフラーも私から外れた。顔を何とか袖でふいて目を開けると、燈子と目が合った。とっさに視線をそらそうとしたが、顔をつかまれてしまった。

「せっかくだからよーく見せてもらうわ。前は俊とやらに邪魔されたけど、もう別れたみたいだし」

 目を外そうとしても、がっちりと顔をつかまれてるから、燈子が視界に入る。幸か不幸か段々と視界がぼやけてきて、燈子が燈子とすら判別できなくなった。

「あはは、やっぱりかわいい。これぐらいじゃないとつまらないわ」

 鼻水と涙でぐしゃぐしゃになったままの私をジーっと見つめていたけど、不意にそれも終わりを告げた。

キーンコーンカーンコーン

「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」

 そういうとぴしゃりと私の頬を打つと、燈子たちは教室に戻っていった。一人取り残された私はただ茫然と彼女らを目で追いかけることしかできなかった。

updatedupdated2024-11-072024-11-07