秋が深まり冬がやってくるのではなく、冬将軍が秋を吹き飛ばしてしまう。だからもう少し秋の格好ができると思っていたら、一瞬のうちに最低気温が氷点を下回ることが普通になってしまった。
小学生や大人の人たちはコートやダウンなどを羽織って体を温めている。しかし中学生や高校生は校則で制服の上に羽織る事が禁止されているので、秋から何ら変わらない格好で登校することを余儀なくさせられている。
「なんで教師はコート来てるのに私たちはダメなんだよ」
学校が近づくにつれてすれ違う教師たちは暖を取りながら、校則に従わない生徒に指導をしている。
「この高校は制服が売りだから仕方ないわ」
美雪は私と似たような恰好をしているはずなのに、寒さを感じさせない。先日聞いたときには、どうやら最近の温かい下着を中に着込んでいるらしくて、重ね着しなくてもそこまで寒くないと言っていた。さすがお嬢様だ。
「そういえば今日は桃花はいないんだね」
学校近くまで歩いて生きて初めて桃花がいないことに気が付いた。普段なら一番話す人だから、いなくなったらすぐにわかるはずなのに。
「そうね。彼女は今日は来ても少し遅れるかもしれないわ。来れるといいのだけど」
一切私のほうに視線を送らないで紡ぐ言葉は、まるで演説か独り言のように聞こえた。直感的に美雪は何か知ってるんだろうとは悟ったけど、聞いちゃいけないことであることも察した。代わりにくだらない話をしながら昇降口の人だかりに溶けだした。
なぜか席替えをしても私と美雪の位置は変わらなかったので、教室に入っても隣同士だった。ただ、桃花のことに触れてから美雪の口がやけに重いので、教室に入ったらお互い勉強に集中した。
最近は家に帰ってからは俊君とゲームすることが増えたせいで、美雪の課題が思うように進まない。だから学校にいる時間を最大限利用して家でやらなくて済むように心がけている。高校一年生でこんなに勉強している人はそうそういないので、クラスではちょっとだけ浮いている。
結局一時間目が始まっても桃花が来ることはなかった。窓際一つだけ空いた席が、最初から誰もいなかったように過ぎ去っていく授業が、誰かの不在に気付かないクラスメイトを少し憎んだ。
授業を聞く生徒が少し減って、睡眠時間として使う生徒が増える。教員の授業に対する熱意も冷めて、寝ている生徒を叱ることも声をかけることもなく、ただ板書を書き連ねるだけ。まじめに受けている生徒も板書を写すだけだ。
部活より体感三倍ぐらいの時間で授業が終わった。休み時間になると、授業の時と生徒のテンションは逆転する。寝ていた生徒たちのほうが楽しそうに談笑し、まじめな生徒は仲間と授業の復習をしている。
「ねえねえ、晴翔さん」
聞きなじみはあるけれど、こんなに耳元では聞いたことない声がした。声の主を見て、教室で騒いでる女子の一人だとわかった。
「最近、隣のクラスの佑月君と一緒にいるって聞いたけど、彼のこと好きなの?」
時々部員から聞かれることはあったけど、クラスメイトから聞かれるのは初めてで少し驚いた。それでも、慌てる様子を押し隠して、平然と彼女に返事をする。
「別にそういう関係ではないよ。ただマネージャーだから帰りが一緒になるってだけ」
私がそう答えると、つまらなさそうな声を出して 元の縄張りに戻っていった。取り繕えたと安どしていると、美雪の声が鼓膜から全身を震わせた。
「晴翔はやっぱり嘘が下手ね」
横目に美雪を見ると、見慣れない本に目を落としていた。綺麗な姿勢で読むその本は、いつの間にかページがかなり進んでいた。
あえて彼女の声が聞こえなかったふりをして、自分の勉強に戻る。ノートを開いたはいいものの、頭の中に俊が浮かんでくるせいでうまく集中できず、結局その休み時間は棒に振ってしまった。
午前の授業が終わり、お昼休みになると私と美雪はいつもの教室に向かった。やっぱりそこはいつものように落ち着いた雰囲気で、お昼ご飯を食べるには最適な場所だった。ただ、三角の席の一辺に誰も座っていないけど。
いよいよご飯を食べようというときに、廊下から小さな足音が近づいてくることに気が付いた。息を殺して音の主が去るのを待とうとしたけど、主はドアの前に立つとすぐに扉を開けた。
「二人とも、遅くなったね」
終電を待つサラリーマンのような顔つきの桃花が扉の前に立っていた。コンビニ袋を片手に下げている。
「学校に来れてよかったわ。私たちもちょうど食べようとしていたところなの。」
美雪が桃花を促して、席につかせた。コンビニ袋から出てきたのは、偶然にも私と同じ幕の内弁当だった。普段ならかける言葉も、今の桃花にはいえなかった。
「いただきます」
梅雨のようにどんよりとした空気が私たちの間を流れる。どうにも居心地の悪い中、桃花にペースを合わせながら幕の内弁当を食べ進めていく。まるで、視覚障碍者と兵走者がマラソンを走っているようだ。
終始桃花は今にも泣きだしそうな表情をしていた。それを見て、私はひっそりと息を殺すしかできなかったけど、美雪はなんだか少しだけうれしそうな表情をしていた。
食事中、美雪が一言だけ桃花にいった。
「桃花、学校のことは心配しないで大丈夫よ。」
その言葉に桃花は卵焼きをほおばりながら深くうなずいた。マネして私も卵焼きをほおばってみたけど、出汁が効いていて少ししょっぱかった。
いつものように食後の紅茶を取り出した美雪は、思い出したかのように小ぶりのラップに包まれたパウンドケーキを三つ取り出すと、私たちの前に一つずつ置いた。
「久しぶりに自分で焼いたの。」
受け取ったパウンドケーキは売り物のようにきれいな形をしていて、外側は樫の木の表皮のような茶色で、内側は卵色だ。綺麗な丸の形をしたレーズンらしいものの断面が見える。
桃花の真似をして美雪にお礼を言うと、ラップを外して一口頬張った。優しい甘さのケーキからふわっとラム酒の香りがする。もしかしてと思ってレーズンを口に入れると、濃いラム酒が口に広がった。どうやら、ラム酒にレーズンをつけることでふくらましていたみたいだ。
美雪はパウンドケーキを片手に紅茶を飲んでいる。贅沢な洋食屋さんでデザートを頼んでいるかのようだ。桃花はお酒の効果か、気持ちがあふれ出したように目じりに浮かんだしずくが大きくなるのをハンカチで拭っていた。
パウンドケーキを食べ終えると、隠れ部屋を後にした。そのころにはもう桃花は泣いていなかった。教室に戻ると、やっぱり当然のように桃花を受け入れた。もとからそこにいたかのように。
午後の授業はあっという間に過ぎ去って、ホームルームが終わるなり私は教室を飛び出した。はやる気持ちを抑えながら、部活に駆け出していく。教室に置いてきてしまった桃花のことが少し気がかりだったけど、きっと美雪が何とかしてくれる。
私の想像通り、すでに体育館には多くの部員が集まっていた。急いで着替えると、私もその輪の中に入っていった。
「遅れました」
「まだ顧問来てないし大丈夫だよ」
先輩たちのテーピングや準備を手伝いながら小森先輩は優しく言ってくれた。より申し訳なさを感じながら、私は筋トレ道具の準備などをする。
「あ、晴翔さん。ちょっとテーピングやって」
ミニハードルを持って戻ってきたところ、大祐君が私を待っていた。ご丁寧に細いテーピングとはさみまで用意してくれてる。
「いいよ。なんだかんだこの突き指も治り悪いね」
慣れた手つきで指をぐるぐると巻いていく。テーピングをするたびに男子の手は太いんだなと実感する。
「俺のもやってよ」
耳をいやす声が頭上から降り注ぐ。でも頼み方がなってない俊を少しだけからかう。
「あんたは自分でやりなよ」
すると、お腹を空かせた子犬のような声でお願いしてくる。
「テーピング巻いてください。晴翔さん」
「はいはい」
大祐君のテーピングを終わらせると、俊のテーピングに移る。せっかく二人がここにいるんだから、なんとなく会話になりそうなネタを探す。
「俊君と大祐君ってどっちが頭いいの?」
「「俺だな」」
ちょうど二人の声が重なる。一瞬間をおいて吹き出して、危うくはさみで俊の手を傷つけそうになる。
「めっちゃ仲良しじゃん」
ちょっかいを入れると、二人は少し顔を見合わせてお互いに笑った。二人がちゃんと会話できることが分かったし、こんな感じで頑張れば何とか二人の仲を取り繕えるかな。
俊のテーピングも終わると、仕上げもついでにやってあげた。俊は女子がうらやむくらい細くて長い綺麗な指をしている。こんな指をブロックで酷使してると思うとちょっともったいないように感じてしまう。
練習は始まってしまうと時間は飛ぶように過ぎていく。レギュラーではない一年生は完全な使い走りでマネージャーと一緒にボールを拾ったり、練習の準備を手伝わされている。筋トレや自主練すらする暇がないんだから少し可哀想に思った。コートの中に立つ俊や大祐君のほうが楽なんじゃないかなと思ってしまうけど、実際はそうじゃないんだろう。
最近は締めの練習がサーブカットからスパイクまでのラリーなので、紅白戦という楽しみがなくなってしまった。しかも顧問がやたら厳しいので、「もう一本」の声が何度も体育館に響き渡る。
顧問の納得するプレーができると、練習が終わった。片づけを一年生と小森先輩と一緒にやると、更衣室に戻った。制服に着替えていると、先輩が思い出したかのように話しかけてきた。
「そういえば、最近は佑月君もだいぶ話すようになったよね」
「確かにそうですね」
一番間近で俊の変化を見てるからわかってはいるけれど、気づいていないふりをする。
「これも同学年のマネージャーのおかげかもね」
そういうと、小森さんは着替えを終えて更衣室を後にした。先輩の足手まといにならないようにすることしかできなかったけど、俊のことで役に立てているとちょっとうれしくなる。
今日はなぜか俊が大祐君たちのグループに取り囲まれるようにしながら帰ってきたので、私もくっついてそば耳を立てる。
「毎度のことだけど、あの人籤運ないよな~」
「このグループ分けはさすがにおかしいだろ」
大祐君と俊が同じ紙に目を落としている。私は俊の隣に立ってその髪をのぞき見する。
「何見てるの?」
「次の大会の組み合わせ表。うちの高校はこのグループ」
俊が指さした先にはうちの高校の名前があった。そして同じグループには、まだ事情通でない私でも名前を聞いたことがある有名な高校が二つ並んでいた。
「まさか県大会常連校に当たるとは」
「まあ、俺らで頑張るしかないな」
大会については意見が一致しているらしい二人。後ろからはひそひそと大和田君たちの声がする。こんなに仲良かったっけと思うのは、私も同じだ。
駅前に着くと、皆と別れて自宅へ戻る。皆で歩いていた時には明るいと思っていた道が一気に暗く感じる。秋風が服の下まで寒さを染みこませる。どこかで空き缶がアスファルトを殴る音がした。