第15話

お邪魔します」

 そう言ってもう見慣れた黒瀬さんの家に一歩踏み入った。本当は黒瀬さんをここまで届けたら帰るつもりで一緒にエレベーターに乗ったけど、黒瀬さんが少しくらい寄ってけばなんて言うので甘えてしまった。傘をさしていてもびしょ濡れなことに変わりはないし、少しの間だけでもブレザーとブラウスを乾かせたら、この気分も晴れるかもしれない。

「シャワー浴びてくるから、適当にしてて」

「黒瀬さんの後、私も入っていい?」

「勝手にすれば」

 黒瀬さんはそう言いながらも私にタオルを渡してくれる。以前に使って返したタオルとは別物だ。暖房のついた彼女の部屋に私を置いて、黒瀬さんは洗面所のほうに早足で向かった。この部屋はすでに私の中で勉強する場所として認識されている。ちゃぶ台を前にすると、問題集を開いて黒瀬さんと向かい合っているところが頭に浮かぶし、勉強しないでいるとかえってもやもやするくらい。ちょっと前の私なら考えられないことだ。

 数えてみるとこの部屋に来るようになってからもう3か月が経とうとしている。もう少ししたら雪が降り始めてもおかしくはないし、木枯らしが町を駆け抜けていると聞いた。そう思うとちょっとだけ感慨深いものがある気がする。いろんな塾に通って、時には個別指導や家庭教師の先生がきたこともあったけど、ほとんど続かないままやめてしまった。プロに教わってダメだったのに、同級生に教わったらちゃんと成績が伸びました、なんてなかなかないんじゃないかな。

「成績、かぁ」

 私しかいない部屋につぶやいてみる。成績、良くなっていると思いたいけど、誰に見せてもほめてもらえるわけじゃない。赤点さえとらなければ門限が早まることはなくて、野恵たちに文句を言われるようなこともない。ちょっと嫌な時はご飯作らなくたって怒られないくらいのいいことはあるけど、それ以上頑張る理由なんてない。そう頭ではわかっているのに、心に消えない何かが残り続けてる。

「まあ、どうせ私は馬鹿なんだし」

 あえて言うならベッドの上にいるカワウソに言うように言葉にしてみた。それからスマホを見てみれば一時間くらい前で野恵からの連絡は止まっていたけれど、いつの間にか知らない人から連絡が来ている。しかも一通目が

「広岡雪梅さんの連絡先で合ってるよね?」

 から始まってる。またかと思って野恵からのメッセージを確認すると、勝手に私の連絡先を誰かに渡したという事後報告だった。言ってもやめてくれるわけでもないし、分かったとだけ返信しておく。野恵のメッセージ的に好みに合わなかったから私に押し付けたような感じがして、少し相手が不憫だなって思った。忘れないうちに新しい連絡先の誰かにも一応返信だけしておく。

「上がったから」

 いつの間にか背後にパーカーに身を包んで、ほかほかに茹で上がった黒瀬さんが立っていた。そのパーカーを見ると黒瀬さんが倒れた時に着ていたのを思い出す。

「随分早かったね。そしたら私も入ってくるよ」

 黒瀬さんは髪を濡らしたまま部屋の壁に備え付けのクローゼットを開けると、私と何かを見比べながら眉間にしわを寄せている。ちょうど扉が邪魔になってクローゼットの中身は私からは見えない位置になっていた。

「どうかしたの?」

 そばに寄ってもクローゼットを閉めないので、黒瀬さんの肩越しに中が覗けた。そこには夏物の制服のブラウスやスカートと似たようなパーカーが数着入っている。私が近寄っても見つめてくるだけで何も言わないので、私が首をかしげるとようやく口を開いた。

「着られるなら着てもいい。」

 すぐに大きな反応が出そうになるのをぐっと我慢する。多分そんなことをしたら、黒瀬さんはすぐにクローゼットの扉を閉めてしまう。

「じゃあ、適当なパーカー貸してくれると助かるかな。スカートはこのままでもいいよ」    ちょっと悩んでから、グレーでロゴが手首のところに小さく入っているだけのパーカーをハンガーにかかったまま渡してくれたので、ハンガーは黒瀬さんに返しておいた。部屋を出た後に気づかれないようにパーカーのサイズを試してみて、動くとお腹が出るくらいだった。黒瀬さんがここまで気を利かせてくれるのが少し気になったけど、傘のお礼だったらうれしい。

 バスルームの扉を開けると、真っ白な湯気に視界を遮られながら、ほのかに感じていた黒瀬さんの香りが辺りに広がる。飾り気のない白のワンピースを想像させるようなさわやかな香りに包まれながらバスルームに足を踏み入れる。全身を軽く流してから、ボトルに目をやるとそこには三本しか置いてなかった。シャンプー、ボディーソープ、洗顔フォームは他より少し小さかった。ボディーソープを少し手に取ると、あの匂いが鼻腔をくすぐった。

「お父さんと使い分けてないのかな」

 普通の女子高生だったらシャンプーとか洗顔はお父さんとは別のを自分で用意すると思う。悠楓なんてお父さんと同じのでいいと思うのに自分のを買うから、棚に入らなくて私はお母さんのを使う羽目になってるくらいなのに。まあ黒瀬さんのことだから面倒くさいからとかそんなところかもしれないけど。

 浮かんでは消える小さな綿埃みたいな考えはシャンプーとともに排水溝に流れていった。お風呂場を出て、髪をタオルで乾かすと黒瀬さんと同じ香りが漂う。ついでに借りたパーカーを着ればなんだか自分の体じゃないみたいに感じる。部屋に戻る前にもう一度髪の香りを嗅いで頭に焼き付けた。

「出たよ。パーカーありがとね。それで雨の様子はどんな感じ?」

「降ってる」

 ベッドに座って本を読む黒瀬さんは視線を上げずに答えた。窓を打つ雨の音でそれくらいはわかる。お夕飯の準備は済んでいるとはいえ、そろそろ家に帰らないといけない時間帯。どうせ帰らないといけないなら、雨はやんでいてくれたほうが歩きやすい。そう願って天気予報を見ると、夜が更けるくらいまで雨は強まったり弱まったりを繰り返すらしい。

 肩を落とした私を見て、黒瀬さんがつぶやくように言った。

「帰るの?」

「シャワーも借りちゃったし、そろそろ帰らないと邪魔でしょ?」

「まだ雨降ってる」

「雨は仕方ないよ」

「私の服が濡れるほうが困る」

「それは洗って返すからさ」

 黒瀬さんは本と私の間くらいに視線を泳がせている。黒瀬さんが何を言いたいのかわからないから、せっかくかばんを手に取ったのに、踵を返せなくなってしまう。じっと私が見つめていても黒瀬さんはそれ以上に口を開いてくれない。ちょっとだけ頭の中で椿姫と黒瀬さんが重なって見えた。

 スクールバッグを床に置いて黒瀬さんに近づくと、ようやく口を開いた。

「勉強教えてないけど言うこと聞いて」

「え?」

「何でもいいから、料理作って」

 私の意思なんて無視したようにそう言い終えると、すぐに視線は本に戻っていった。付け足すように「無理ならいいけど」とつぶやいたけど、私の耳にはほとんど入らなかった。雨のこと、お母さんたちの夕食のこと、黒瀬さんにお願いされたこと、頭の中で私の欲しい結果になるように結びつける。

「料理作るのは全然いいよ。何か作ってほしい料理ある?」

「ない。あるもので適当に」

「じゃあちょっと待ってて」

 そう言い残してキッチンに向かう。あれから何回と使った台所は、だんだんと食材が増えている。そのほとんどは私が買いこんだもので、黒瀬さんが買ったり使ったりしたものはほとんどない。ジャガイモが冷蔵庫と壁の隙間に置いてあったり、玉ねぎは先に全部切って冷凍してあったり、なんとなく黒瀬さんの家の中でここは私の場所になっている気がする。

 一通りの食材を確認してから黒瀬さんの部屋に戻る。変わらず本を読んでいる黒瀬さんの隣に座ろうとすると、ちょっと距離を置かれた。

「近い」

「いいじゃん。多分材料的にカレーとシチューと肉じゃがは作れると思うんだけどどれがいい? それともほかに食べたいものある?」

「シチュー」    本を見つめたままの黒瀬さんはギリギリ肩に手が届かないくらいの距離にいる。このまま黒瀬さんの横顔を見ていたい気もするけど、黒瀬さんに怒られる未来が見えるからキッチンに戻る。もう少し気温が高い日はカレーになることが多かったけど、今日はシチューの気分なのは私も一緒だった。

 具材を切っては鍋に入れながら、自分が使っている包丁とまな板を見てみる。多分このまな板は檜でできていて、包丁で切るたびにほのかに香りが漂う感じがする。それにこの包丁だってマークを見ればドイツ辺りの金物屋さんのものだ。黒瀬さんが知らないとしか言わないからわからないけど、これだけ料理道具にこだわる人なら、一度は会って料理してるところが見てみたい。

 シチューと言われて作り始めたはいいけど、ルーをこの前使い切ったばっかりだったのを思い出した。冷蔵庫に牛乳はあるし、粉物入に薄力粉があるのは知ってるから一応作れるとは思うけど、上手く作れるか少し不安だなぁ。いつもより気持ち多めに油を入れて、薄力粉をまぶした野菜とお肉に視線を落とす。

 牛乳を入れてぐつぐつと煮込み始めて、何回か味見をしてみる。なんか思ったような味にならないのがちょっと悔しい。やっぱり市販のルーみたいにはいかないのかな。

「何してるの?」

 いつの間にか黒瀬さんが私の隣から鍋を見つめていた。

「ちょっと思ったような味にならなくてね。黒瀬さんも味見してみる?」

 小皿にシチューを入れて少し冷ましてから渡すと、勢いよく口に流し込んだ。

「熱い。あと味薄い」

「そうだよね。どうしようかな」

「チーズでも入れたら?」    チーズなんて入れたら、と言いかけてから立ち止まる。チーズ入れたらどんな味になるんだろう。変な味になると思ったけど、チーズも乳製品だしそう悪い味にはならないかもしれない。

「チーズ、いいかもね。ちょっと入れてみるよ。」

 冷凍庫からシュレッドチーズを取り出してシチューに適当に入れる。味がうまく混ざるかわからないから念入りに溶けるのを待ってから、黒瀬さんの器にもう一度よそった。

「ちょっとこれ味見してみて」

 やっぱり一気に飲んだ黒瀬さんは熱いと言った以上は何も言わなかった。でも、声音が柔らかかったのを聞いて私は安心して自分も味見をしてみる。確かに悪くない味、チーズのちょっとこってりした塩味が薄味だったシチューにコクを出してくれている。黒瀬さんのアドバイスで料理がおいしくなったのは、多分これが初めてだ。

 あとは二人で準備をしてお夕飯を食べ始めた。最初は少し埃が積もっていた黒瀬さんの隣の席が、いつの間にか私の定位置になっている。変わらず私の前にはたくさんの書類が積み重なっている。ちらっと見た時に、通帳や授業料の書類が混じっていたのが目に付いてから、なるべく見ないようにしている。

「もうすぐ冬休みだけど、黒瀬さんは予定はあるの?」

「さやに誘われたら遊びに行く」

「自分から誘えばいいのに」

 黒瀬さんはそれ以上言わない。無言でシチューをほおばっている。

「冬休みはちょっと勉強しに来られないと思うから、年明けまで家庭教師はお休みでいいよ」

「そうなの?」

 さっきまでシチューしか見ていなかった黒瀬さんと急に視線が合う。一方的に見てるだけだったから、ちょっとドキッとする。

「野恵たちに遊びに誘われてるし、年末は家の掃除があって、おせち作ったり忙しいからね。年明けてからも初詣とか親戚の家に行くから、冬休み明けるまでちょっと難しいかな」

「そっか」

 ちょっとだけ期待した私がばかみたいに、黒瀬さんはそっけなく返事をする。でも私は何に期待していたんだろう。黒瀬さんが私に勉強を教えることを嫌がっていないこと? それとも、私が作る料理をおいしいと思ってくれること? 一緒にゲームをすることを楽しんでくれてること? どれもそんな気がして、どれもそうとは言い切れない。

 黒瀬さんの服を着て、黒瀬さんの匂いに包まれて、今も手を伸ばせば届く距離にいて。それでも黒瀬さんの心には近づけない。一ノ瀬さんだったら、なんて思っちゃう自分が嫌になる。どうせ私はと心の中の自分に言い聞かせる。

 ご飯を食べ終わるころには雨はすっかりやんでいた。親からも帰って来いと言われてしったので、仕方なく黒瀬さんの家を後にする。玄関まで見送りに来てくれた黒瀬さんの匂いを少し嗅ごうとしたら、早く帰ってと怒られてしまった。雨上がりの夜空は分厚い雲に覆われていて、せっかくならもう少し降り続いてくれればいいのにと文句を言いたくなる。

updatedupdated2026-04-262026-04-26