第14話

 小道に面したレコードに収録されていそうな音楽が流れるカフェで、黒瀬さんと向かい合ってメニューを眺めている。外では相変わらず神様が機嫌を損ねたみたいな大雨が続いていて、窓に当たる雨粒の音がドラムロールみたいに聞こえる。足から天板まで木目を感じさせるような木のテーブルとイスに、壁際には本棚やラックがあって店主さんの好みを感じさせる雑誌や実用書が並んでいる。入口のそばの窓際に座る私たちのほかには、店の奥のほうにお母さんくらいの世代の女性が二人、派手さはないけど上品な着こなしでコーヒーをすすっている。

 普段私から提案してもいい返事をくれない黒瀬さんが、家の外で一緒にいてくれるという事実を反芻して、メニューは見えているだけになっていた。ちょっと家に帰りたくなくてしただけの提案だったから、せっかく一緒に来てくれるなら映画館とかにしたほうがよかったかなと思うけど、そしたらついてきてくれなかった気がする。だから今はこの時間をかみしめたい。

「広岡さんは決めた?」

「まだ決めてないから、もうちょっと見せて。」

 早く決めてと言ってメニューを私のほうに向けてくれた。メニューはコーヒーが何種類かと紅茶、ジュースとセットでマスターの得意なケーキが付いてくるものだけ。よくあるサラリーマンをやめたコーヒーとお菓子作りが得意なマスターがやっているカフェといった感じがしていいカフェだ。こういうお店はよく恵美が見つけてきてくれる。

 四種類のケーキを眺めて、私は野恵たちと来た時には選ばなかったチョコレートケーキにした。メニューを机の端に立てかけると、音もなくウェイターさんが机のそばに立って、決まり文句を口にする。手際よく注文を取っていくと、また意味のない言葉になりかけた定型文を残して去っていく。

「黒瀬さん、コーヒー飲めるんだ」

「一応」

 ミルクはつけてたけどコーヒーが飲めるのはちょっとうらやましい。私はあの大人な苦みと渋さの飲み物は、毎朝味見はするけれどカップ一杯を飲みきれる自信はない。香りだけならおいしいと思うけど。

 黒瀬さんはちらっと周りを見渡すとかばんから本を取り出して開いて、すっと視線は本の中に吸い込まれていく。学校でも家庭教師の隙間時間でも黒瀬さんが本を読んでいるところは何度も見てきている。いつも同じ本を読んでいるようで、ちょっとカバーが違ったり厚さが違ったりする。黒瀬さんの部屋にある本棚はすごい大きいし、そのほとんどに文庫本が詰まっていたのも目にしたことがある。今日読んでいるのはとびきり分厚い本で、多分黒瀬さんが一番持ち歩いている本だと思う。

 話題さえあれば話しかけようと思ったけど、本を読んでいるところを邪魔できるほどの話題が思いつかない。いつもみたいに黒瀬さんには私の勉強を見るっていう役割がないから、無理に話しかけるわけにもいかない。スマホを開けばきっと野恵たちから連絡が来てるかもしれないけど、わざわざ返信する内容のものはないと思うから、静かにページを繰る黒瀬さんを眺める。

 制服に身を包んだ少女が一人、町の隠れ家みたいなカフェで落ち着いた音楽と小さな喋り声をBGMに本を読んでいる。青春ドラマに出てきそうなワンシーンを切り取ったみたい。ああいったドラマに出てくる本好きの少女は後から重要な役割になるからって、地面から少し浮いていてもおかしくないような女優さんがやってるけど、実際はふと目を離したらいなくなってしまいそうな黒瀬さんのほうが似合っていると思う。

 さっき注文を取ったウェイターさんが机の上に黒瀬さんのコーヒーと私のポットに入った紅茶とカップ、それにケーキを2つ置いていく。読書を中断させられた黒瀬さんは興醒めしたような顔つきで本を机の端にどかすと、目の前にコーヒーとケーキを置いた。私は自分のカップに紅茶を注ぎながら黒瀬さんのほうを見ていたけど、ミルクは使われていなかった。

「じゃあ、模試お疲れ様ってことで」

 私がちょっとふざけて乾杯のジェスチャーをすると、黒瀬さんも少しだけコーヒーカップを揺らしてから一口飲んだ。黒瀬さんに無理をさせているような気もするけど、合わせてくれると少し胸の重荷が取れる。一口すすった紅茶は程よく渋くて飲みやすかった。

 黒瀬さんがチーズケーキに手を付けたのを見て、私も自分のケーキを切るといつもの癖で一口分黒瀬さんのお皿に乗せた。途端に黒瀬さんの表情が曇る。

「何?」

「おすそ分け。一人で味わうよりも二人で分け合ったほうが幸せじゃない?」

 頑張って笑顔を崩さないように、声が固くならないように言うと、黒瀬さんの眉間のしわは消えた。そして、黒瀬さんが口に運びかけていたケーキが私のお皿に乗せられた。

「あ、ありがと」

「……別に」

 私はせっかくだからもらったチーズケーキを先に口にした。表面を軽くあぶってあるベイクドチーズケーキは甘すぎず柔らかすぎず、単調な飽きがこない味だった。

「おいしいね。」

「そっか。チョコレートケーキもおいしい」

「それならよかった」    黒瀬さんの返事が聞けたことに満足して、自分のチョコレートケーキも口にする。こっちは少し甘めな味付けで、きっとコーヒーが飲めたらおいしく感じると思う。紅茶を一口すすっても口の中に余韻が残っている。   「そういえば今日の模試、黒瀬さんに教えてもらったからいつもよりできた気がするよ」

「そうじゃないと困る」

「この前黒瀬さんに教えてもらった問題も出てちゃんと解けたよ」

「まああれは簡単だったし」

 何かを話し終えるたびに黒瀬さんは眉間にしわを寄せたままコーヒーを少しずつすする。そのせいで言いたい言葉をなかなか言わせてもらえない。タイミングを探しているうちに、早く食べなよと急かされる。結局喉に引っかかった言葉が出られないまま、紅茶に沈めてしまう。

 野恵たちといるときだってこういうことはしょっちゅうある。二手先くらいまで考えてあった話題がすぐに潰えてしまうこともよくある。でも黒瀬さんにだけ感じるもやもやはチョコレートケーキの甘さでも紅茶の渋さでも窓に当たる大粒の雨でもかき消せない。だから代わりに思いついた話題を投げかける。

「黒瀬さんはこういうお店って来ることあるの?」

「ない」

「じゃあ、一ノ瀬さんと遊びに行くときはどんなところに行くの?」

 黒瀬さんの声には飲んだばかりのコーヒーと同じくらいの苦さがこもっていた。

「ゲームセンターかショップ。時々ファミレスも行くけど」

 多分続けたくない話題なんだと思って、そこで切り上げて私も一口紅茶を飲もうと思ってカップを傾けたけど、渋い数滴が残っているだけだった。さっき継ぎ足した分でポットも最後だ。目の前にあったはずのチョコレートケーキもひとかけらしか残っていない。でもまだ窓の外の雨は止んではいない。

 さっきからどんな話をしても黒瀬さんが苦い顔ばかりする。そう思っていたけど、黒瀬さんのコーヒーカップの中があんまり減っていないのが少し気になる。ミルクソーサーの中身は減ってるし、いつの間にか空のシュガースティックの袋が立てかけてある。自分から頼んだんだし、まさかと思うけど、どうしても気になって聞いてしまう。

「もしかしてだけど、黒瀬さんコーヒー苦手なの?」

「悪い?」

 黒瀬さんは目をそらして一口飲むと、コーヒー豆を口の中でかみ砕いたような表情をしていた。カフェに入って分厚い小説を読みながらコーヒーが来るのを待っている時は、同級生なんだけど随分と遠くの人のように感じた。けど、苦いのを我慢しながらコーヒーを一口ずつ飲んでいる黒瀬さんはずっと私の身近な存在な気がする。もしかしたらずっと近くにいたのに私が気づかなかっただけかもしれないけど。

「そんなに苦手なら、私が少し飲んであげようか?」

「自分で飲むからいい」

 黒瀬さんは私に渡すまいとコーヒーカップを両手で抱えるように持つ。三人で勉強をしたころの私なら、きっとこの言葉も苦々しいものだと感じ取っていたと思う。でも今の私には、黒瀬さんが拗ねているのがわかって笑みがこぼれる。当然、そんな私を見ると黒瀬さんの額にはしわが刻まれるけど、それすらもちょっと胸を温かくする。風邪で寝込んでいる黒瀬さんにも感じたそれの名前を私は知らない。

「私のこと見てるくらいだったら、なんか面白い話でもしてよ」

 黒瀬さんはきっともう冷めて酸っぱくなってきてるコーヒーを飲んでいる。一緒にご飯食べてる時にもときどき言われるから、何となく黒瀬さんが好きそうな話は少しずつわかってきた気がする。できれば学校の話題で野恵や恵美が登場しない話で、黒瀬さんが反応しなくて済む話。どの先生が最近結婚したとか、体育の授業で転んだ話とかそんなたわいもない話。

 いったいいくつの話題を話したかわからないけれど、思いつく限りの話をし終えた頃に黒瀬さんはコーヒーを飲み干した。カップの横のシュガースティックのごみは4つになっていて、カップの底にはわずかにコーヒーの粉と溶け残った砂糖が残っている。

「帰る」    黒瀬さんに言われて、帰らなくちゃいけないんだと思いだす。外の雨はだいぶ落ち着いていて、雨宿りとしては十分だったから、もう帰らなくちゃいけない。少し名残惜しさを残したまま会計を済ませてカフェを後にした。

「黒瀬さんの家まで送ってくよ」

「ありがと」

 時々言われるようになった言葉だけど、今日だけは少し胸が痛くなる。抜き忘れた鍼のように動くたびにチクリと心を刺す。

 同じ傘の下、本当は帰るまで手をつなぎたかったけど、もう柔らかいその手は握らせてくれなかった。代わりに手を伸ばせばすぐ掴まえられる距離にいて、逃げ出すこともないとわかっているから、聞きたいことを聞いておいた。   「なんで苦手なのにコーヒー頼んだの?」

「……かっこいいから」    黒瀬さんの声はしとしと雨の中に溶けていく。

updatedupdated2026-04-262026-04-26