第13話

 天気予報の降水確率10%なんて表現はずるいと思う。数歩先の看板すら見えないような大雨も10%で当たっていることになってしまう。間違っていたとしてもレストレード警部くらい堂々と間違えてくれたほうがまだましだ。

 高校に決められた模試のせいで、週末に行ったことのない街の大学の広い教室で、知らない高校生たちに混ぜられてテストを受けさせられた。前に座った人の座高が高いせいで時計が見えなくて、名前を書き損ねて呼び出された。こんな日はさやと一緒にゲームセンターでも寄ってから帰ろうと言いたいのに、文系のさやは理系の私を置いて帰路に就いたと連絡があった。

 天気予報に踊らされて傘を持たなかった私にできることは、玄関に近いところの椅子に腰かけて小説を読むくらいだった。口々にテストの文句を言ったりこの後の予定を話したりしながらほかの人に傘を当てないように慎重に柄を握りしめて大雨に繰り出していく中、私に気づいた人のアヒルの中のダチョウを見るような雨よりも冷ややかな視線が痛かった。

 だんだんと私の前を過ぎ去る人が少なくなっていく一方で、一向に雨が止む気配はなかった。本の中のハードボイルド探偵は今日もやり場のない権力への怒りを抱え、警察が見捨てた事件を単身で追いかけている。日常に彩りを与えた彼の友人のために、別れの言葉を交わせなかった孤独で礼儀正しい酔っ払いのために、今日も誰かに殴られている。

「黒瀬さん、傘ないの?」

 聞きなれた声が鼓膜を震わせた。私は本から視線を外さなかった。それでも、視界の端に目立ちたがりな茶髪が映った。

「外で話しかけないでって言ったはず。」

 本を閉じると広岡さんが小首をかしげている。

「もうほとんどの人は帰っちゃったし、この雨の中ならだれにも見られないよ。私の傘大きいし一緒に帰らない?」

「先帰りなよ。どうせ雨がやまなかったことなんてないんだから。」

 広岡さんのため息にも似た吐息が白く曇った。

「そんなこと言ってると暗くなっちゃうよ。ほら、一緒に帰ろ?」

 差し出された右手に本を押し付けて席を立つ。不満を言う広岡さんから本をひったくってかばんの中に戻した。

「一緒に帰ってもいいけど、できるだけ離れて。」

「それじゃあ濡れちゃうでしょ。」

 ギターケースを手に抱えても濡らさずに済みそうなくらい大きな傘が私と広岡さんの頭上に広がる。見慣れない高さで傘が雨粒を受け止めて小さな避難場所を作っている。私が距離を置こうとしても広岡さんがなかなか離れてくれない。

「もっと近くに寄りなよ。」

 そういって肩が触れ合うくらいぴったりと隣を歩く。もう歩道の端まで追いやられた私に逃げ場はなかった。誰にも見られないことを願いながら、広岡さんを少し見上げる。

 並んで歩いていたはずが段々と広岡さんだけ前に進んでいって、傘を伝った水滴が後ろ髪を濡らした。少し歩調を速めて広岡さんに追いついて、もう一度確かめるように一歩ずつ踏み出す。よく見ると広岡さんのほうが歩幅がローファー半分くらい広かった。品がないとわかっていながら、少し大股気味に広岡さんの歩幅に合わせた。

「黒瀬さんは今日の模試どうだった?」

「普通。」

 もう少し何か答えようと思っても、慣れない歩幅と歩調に気を取られて頭が働かない。結局思いつくままに言葉をぶつける。

「難しいとは思わなかったし、学校のテストとそう変わらない。」

 まっすぐ前を向いたまま広岡さんはそうかもねとだけ答えた。突然広岡さんが横を向いたせいで、広岡さんの二の腕が私の肩にぶつかった。

「あ、ごめん。もしかしてちょっと歩くの速かった?」

「別に。」

 そう答えたはずなのに、広岡さんは覚えのいい子供と一緒に歩く母親のように歩幅を緩めた。自然と広岡さんの二の腕の柔らかい感触が私の肩に当たる。私は気づかれないように唇を少し噛んだ。それから意味のない問いかけをした。とにかく傘で守られた空間の静寂が嫌だった。

「畠さんたちとは一緒に帰らないの? 模試終わりは遊びそうな感じだけど。」

「本当は一緒に遊ぶ予定だったんだけどね。気づいたら置いていかれちゃって、今は他校の人と遊んでるみたいだよ。」

 いつもの自虐的な表情をしていたけど、不思議とその声は澄んでいた。畠さんと綾辻さんが見知らぬ人と並んで取ったプリクラを見せてくれた。今私と並んでいる広岡さんよりも、このプリクラの端に映る広岡さんのほうが誰から見ても想像しやすいと思った。

「じゃあ、この後は合流するの? それともまっすぐ帰る?」

 思いついたままの質問に広岡さんは口ごもった。   「今から行っても邪魔だと思うけど、まっすぐは帰りたくないし……。」

 何かを言いよどんでいる広岡さんを見るのは初めてだった。苦いものを口に含んでいるかのような表情を隠さないまま続きを話した。

「黒瀬さんはこの後予定あるの? 一ノ瀬さんと遊ぶとか。」

「ない。ただ帰るだけ。」

「じゃあ、少しだけ寄り道しない? ちょっとカフェでも行こうよ。」

 私が返事をする前にお腹が答えた。雲の切れ間から顔を出した太陽のように広岡さんは声を出して笑った。自分でも顔が熱くなるのが感じられる。

「黒瀬さんもおなかすいてるんだ。じゃあ、黒瀬さんの家のほうで野恵たちに教えてもらったカフェがあるから、そこに行ってみない?」

 こういう広岡さんはちょっとだけ卑怯だと思う。小説の裁判官や弁護士が証人にするような答えが決まっている質問をしてくる。

「いいけど、食べたらすぐ帰るから。」

「わかった。」

 雨に似つかわしくない表情の広岡さんの隣を歩く。車の走る音さえも耳にはあまり入らない。街路樹の枝もうるさそうにうなだれている。道端の雑草は雨にたたきつけられて、隙間に身を埋めている。信号機の光もにじんだ水彩画のように見えた。ただ、傘の下の広岡さんだけはよく見える。

 「広岡さん、それ何?」

 広岡さんの肩にぶら下がるスクールバッグにつるされたCMでしか見たことのないマスコットを指さした。

「これは野恵たちと遊びに行った時に買ったやつだね。もうあれから一年近くたつんだったかな。黒瀬さんは行ったことある?」

「ない。」

 CMでしか見たことがなくても、そのマスコットがテーマパークのものなことは知ってる。   「1回くらい行ってみるといいよ。ここからそう遠くないしね。」    でもそろそろ付け替えようかな、と広岡さんはこともなげに言った。広岡さんはそんな簡単に思い出の品を付け替えるんだと思うと、足に鉛が入ったように重くなった。いまだにさやと初めて遊んだ時のゲームを大事にしている私には想像もできないことだ。きっとそれは広岡さんにとっては日常なんだろう。

 唇を少し噛んで足を少し大きく振った瞬間、小さなくぼみに足が引っ掛かる。絶妙にはまったローファーの先端が抜け出せないまま、ゆっくりと視界が地面に迫っていく。目の前にある水たまりに絶望しかけた時、温かいものに手を引っ張られて、体が水浸しにならずに済んだ。

「大丈夫?!」

 私の手をつかむために傘が地面に転がされて、土砂降りの雨を浴びながら焦った表情の広岡さんが悲鳴に近い声で言った。

「私はいいから、傘拾ったほうがいい。」

 そう言ったはずなのに、広岡さんの左手は私の手をつかんで離さない。少し後ずさりして右手で傘を拾い上げると、さっきと同じように傘が頭上に広がった。

「手、放してほしいんだけど。」

「いいじゃん。誰にも見られないんだし。」

「よくない。」

 私がいくら言っても広岡さんの手は硬く私の手を握りしめている。やりづらそうにハンカチで顔を拭いたりかばんを拭いたりしても、その手は離さないので、私も少しだけ握り返す。広岡さんの手は柔らかくほっそりとしていて、絹みたいだった。直に感じた広岡さんの体温は濡れているはずなのに私のそれよりも温かくて、細いのに包み込むような優しさがあった。きっとそれは私だけが知らない温もりだった。  

updatedupdated2026-04-182026-04-18