「え、今日のお願いはそれでいいの?」
勉強が終わった後、広岡さんに今日のお願いをした。それは昨日のことのお礼もかねて、お夕飯をご馳走しようと思ったのだ。
「嫌なら帰れば? どうせレトルトだし。」
「黒瀬さんからのお願いだからもちろんやるけどさ。貰い物なんでしょ?」
広岡さんは少し眉根を寄せて私のスクールバッグからはみ出ているビニール袋を指さした。 「いい。なくなったらまた買い足すだけだし。」
そっか、というと広岡さんは自分の勉強道具を片付けて立ち上がった。
「そういえばキッチン入ってもいいの?」
「……いい。」
一度見られたものは何回見られても変わらない。そう自分に言い聞かせる。さやからもらったレトルトが入ったビニール袋をもってキッチンに入ると、先に広岡さんが冷蔵庫を開けてみせた。
「ほら、このジュースが入ってる棚の上に卵あるから。適当に使って。」
「使い方わかんない。」
小さい子のわがままに不満を漏らすように広岡さんがため息をつく。でも、卵なんて出来合いのゆで卵を買うことがあるくらいで、生卵は卵かけごはんにして食べるくらいしか知らないから、一日一個食べても賞味期限が切れる4つくらいは捨てるしかない。
「卵焼きでも目玉焼きでもゆで卵でも、いくらでも食べ方はあるでしょ。というか、本当にレトルト以外ほとんど食べないの?」
「カップラーメンも食べる。」
そういって足元にあるカップラーメンの段ボールに視線を移す。この前なくなった時にネットで新しい味を1箱注文したばかりで、まだ数回しか食べていない。
「そんな食生活だから風邪ひくんだと思うよ。とりあえず、今日はどれ食べるの?」
ビニール袋からロコモコのパウチを取り出すと、広岡さんのほうにビニール袋の中身が見えるようにした。
「選んでいいの? そしたら私はこれかな。」
広岡さんが選んだのはパッケージの隅に色の塗られたトウガラシの数で辛さが表現されているチリコンカンだった。
「それ辛そうだけど大丈夫?」
いつかさやが来た時にさやに食べさせるつもりだったから、思わず口から言葉が出た。それでも、広岡さんは表情一つ変えずにお鍋を取り出しながら言った。
「辛いものは慣れてるし平気だよ。じゃあ、温めるからそれ貸して。」
ロコモコのパウチを私から取り上げると、鍋に水を張って沸騰させた。慣れた手つきでガスコンロの火をつけて換気扇を稼働させる。にわかにキッチンは広岡さんの戦場だというオーラで、私は食卓側に追い出された。
「でもこれだけじゃお腹膨れないでしょ。なんか作ろうか?」
「あとはご飯のレトルト温めればいい。卵しかないし。」
せっかくご飯を一緒に食べようと提案しただけなのに、普段なら遠慮する広岡さんが積極的に動くとは思ってもなかった。どうせなら椅子にでも座ってご飯が出てくるのを待っていればいいのに、慣れた様子で鍋の上に手のひらをかざして何かを確認している。
「卵ねぇ。目玉焼きとかゆで卵なら作れそうだけど。」
「卵焼きは?」
お昼休みに食べたさやのお母さんの卵焼きを思い出した。広岡さんは少し眉根を寄せながら、鍋が入っている引き出しを開けて屈みこむ。私はコンロについている火から目が離せなかった。
「見た感じ卵焼き用のフライパンがないから形がきれいにならないと思うけど、それでもいい?」
「何でもいい。食べれば一緒だし。」
いつも引き出しで鍋の隣にあったフライパンを出すと鍋の隣において、どこからか取り出した謎の液体をフライパンにそそいだ。
「何それ。」
「ん? ただの油だよ。使ったことないの?」
「使ったことくらいはある。」
中学校の調理実習で見たことはあるけれど、この部屋のどこにあるかは知らなかった。広岡さんが戻した場所で砂糖や塩が入っている棚の下だったと知った。
広岡さんは冷蔵庫から出した卵をフライパンに割り入れると、砂糖を少し入れてから素早くかきまぜた。どうやって感じ取っているのか、卵の下のほうが固まると折り紙みたいにパタパタと内側に畳み込んでいく。その間に鍋のお湯が沸騰するとスマホを取り出してタイマーを仕掛けていた。
「じゃあ、黒瀬さんはご飯を温めてくれる?」
「わかった。」
きびきびと動く広岡さんからの指示は断る余裕の与えないものだった。言われるがままに二人分のご飯をレンジで温めた。
「何とか完成したね。それじゃあ食べよっか。」
ご飯を温めた後も広岡さんが盛り付けをして、カウンターには器がレトルトのご飯のままなことを除けば普段よりも豪華な食事があった。
「私、机のどの部分使ったらいい?」
広岡さんは困ったように食卓を眺めた。埃が積もっている場所、書類が散乱している場所、きれいに整頓されている場所、それぞれに座るべき人が決まっている。私は無言で自分の席の隣を指さした。私の前に座るのは広岡さんじゃない。広岡さんは誕生日ケーキを前にした子供のようにチリコンカンの乗ったご飯を見ていた。きっとじゅるりなんて擬音が合うに違いない。待ちきれないといった様子の広岡さんが先に言った。
「いただきます。」
「……いただきます。」
ロコモコのハンバーグは肉厚で、バーベキューソースがよく絡んでいて、ご飯によく合う味付けだった。隣から漂うチリパウダーの匂いとバーベキューソースの匂いが混じって食欲をそそる。
「そういえば、買ってきた漫画は読んだの? 私もあんまり読まないからどれがいいかわからなかったんだけどさ。」
「読んだ。本棚にあるから読みたかったら読めば。」
今度読ませてもらおうかな、なんて言いながら広岡さんはまた一口チリコンカンを口に運んだ。あんなに辛い匂いを漂わせているのに、水も飲まないでよく食べられると思う。
「そういえば黒瀬さんって何を目標に勉強してるの? いつ見ても勉強してるか本読んでて、勉強なんて楽しくないのにすごいなぁって思うんだけどさ。」
「行きたい大学があるから。あと別に勉強は楽しくないわけじゃない。」
いつかのエンタメ番組みたいな反応が聞こえた。
「そっか、目標があれば頑張れるのかもね。」
広岡さんは? という言葉は喉の奥に引っかかって出てこなかった。広岡さんの声が聞いたことのない寂しさを感じさせるものだったから。代わりに卵焼きを1つつまんで口に入れた。それはお昼に食べたものに触感は似ていたけど、どこか甘さが主張する味だった。
「この卵焼き、甘いね。」
「甘い卵焼きは苦手だった?」
勢いよく私のほうを振り返る広岡さんに、そんなことないと告げる。
「私の想像してた甘さと違っただけ。おいしい。」
「もしかしたらみりんで作った卵焼きのほうかもね。みりんで作るともっとふわっとした感じの甘さになるんだよ。」
そういって広岡さんは卵焼きの切れ端を食べた。
「ねぇ黒瀬さん。答えたくなかったら答えなくていいんだけど、冷凍庫に入ってたハンバーグは食べないの?」
口の中の卵焼きの味が消えて、急に舌先が乾燥する。久しく開けていない冷凍庫のこと、何で広岡さんが知っているのか、冷凍庫に眠っているハンバーグ、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。寝込んでる私の額にあった保冷材は冷凍庫から取り出したんだろう。開けたくなくてそのままにしていた冷凍庫に、消えることはないと知りながらハンバーグがいまだにあることは少し驚いた。
思い出したくないこと。できれば引き出しの奥のほうにしまったら鍵をかけて永遠に開けないでいたい出来事。中身が詰まった引き出しは軽い力でも飛び出して、もう元には戻らないこともある。だからできるだけ小さな力で引き出しから最低限の言葉を取り出した。
「……あれはお父さんのだから。」
「そう、なんだ。匂いが出ないようにジッパー付きの袋に入れておくといいよ。」
広岡さんはまるで子供を諭すような表情を私に向けた。広岡さんが分かっているのか、何も知らないでいるのか、月のような優しさから推し量ることはポワロのような名探偵ではない私には無理だった。
私より先に食べ終わって、広岡さんはシンクの前に立っていた。手際よく鍋やフライパンを軽く水にさらしてからスポンジで泡を乗せている。
「お粥が入ってたお皿、置きっぱなしにしないほうがいいよ。」
「どこに戻していいかわかんない。」
洗い物くらいは自分でできるけど、どこに戻していいのかわからなかったから、そこに置いてあるだけだ。ボーっと片付けられていく鍋やフライパンを眺めていると、一度も使われているのを見たことのないお皿の上に、初めて使ったお皿が乗せられた。
洗い物を終えて広岡さんとちゃぶ台をはさんでいる。散乱していた問題集やノートをスクールバッグにしまいながら広岡さんが言った。 「黒瀬さんに勉強を教えてもらう日は私が料理しようか? 私馬鹿だけど、料理には自信あるんだよ。それに二人で食べると楽しいじゃん。」 広岡さんに作ってもらった卵焼きのせいで言葉に詰まる。 「……勝手にすれば? うちにはたいした食材もないけど。」
「食材は私が買ってくるよ。ってことで決まりだね。」
スクールバッグを肩にかけて立ち上がった広岡さんは少しだけいつもより高く見えた。思い出したようにごそごそとスクールバッグの中を漁ってから見慣れたタオルを私の手に持たせた。
「これ、洗ったから返すね。そしたら、そろそろ帰るから。ご飯美味しかったよ。」
広岡さんは扉を開けると夜の闇に溶け込んだ。明るい茶髪もエレベーターに乗るころには見えなくなっていた。手の中のタオルから広岡さんと同じ香りがする。そのせいでまだ広岡さんが近くにいるような感覚に陥った。
リビングに戻るとテレビをつけてゲームを起動した。対戦相手が機械の格闘ゲームは何回倒しても勝った気にならなかった。