喉の渇きで目が覚めた。照明は小さな部屋を煌々と照らしているけれど、カーテンの隙間から見る世界は闇に包まれている。額にぬるりとした接着感と妙な冷感がある。腕の中のカワウソがもう少し寝ない? と誘うような顔をしている。
ぱっとしない頭に文句を言いつつ、何があったか必死に思いだす。寝坊してお昼ご飯が食べられないまま家に帰ってきて、広岡さんに勉強を教えて休憩の時に倒れて。そのあとのことはよく思い出せない。掛け布団をたたむようにどかすと、その下から真新しい漫画の雑誌本が出てきた。そうだ。これは広岡さんが買ってきてくれた本だ。
ちゃぶ台に倒れたはずが、気が付いたらベッドで寝ていて、勉強を教えられないからと帰すつもりだった広岡さんが飲み物を作ったり額のシートを貼ったり、お粥を作って食べさせてくれたりした。寝ぼけたまま頼んでしまったお遣いもしてくれて、ちゃんといろんな漫画が読める雑誌を選んでくれた。
「とりあえず起きて何か飲も。」
ベッドから出ると、ちゃぶ台に置いてある紙切れが目に入った。何回か見たことのある、広岡さんの丸文字。書置きは丁寧にお遣いで何を買ってきたのかと、残っているお粥が入っている場所を教えてくれた。ついでに裏面には広岡さんが何回か飲ませてくれた飲み物のレシピまでついていた。最後に「勝手にキッチンに入ってごめんなさい。」と添えられていた。
キッチンに行くと、一見すれば広岡さんが立ち入ったようには見えなかった。使った道具は丁寧に洗って元の場所に戻してくれていた。それでも、広岡さんがここで料理をしたんだと、きれいになったガスコンロが物語っていた。
入ってほしくなかった場所。人に見せたくないものを押し込んだ部屋。さやにすら案内するのにためらったダイニングキッチンとリビング。そんな場所に広岡さんが踏み入ったことは許せないはず。それでも、してくれたことの数々を思うとそう簡単に責めようと思えない自分もいた。
蛇口の水をカップにそそいでから、広岡さんがくれた書置きの裏にあったレシピを思い出す。カップラーメンの味変やあまりおいしくないレトルトを味付けするときにしか使わない調味料棚から、砂糖と塩を取り出すと分量を水に入れてかき混ぜた。どっちの粉もカップの中でぐるぐる回っているうちにだんだんと姿が見えなくなっていった。完全に目でとらえられなくなってから少し飲んでみる。
しょっぱい。
分量は正しいはずだけど広岡さんが作ったものよりは塩気があった。喉の渇きが治まると、今度は少しお腹が空いてきた。言われてみれば今日食べたのがお粥しかないから、お腹が空かないほうがおかしいというものだと思う。書置きにあったように冷蔵庫にしまわれていたお粥のはいった器を取り出して、レンジに温めさせる。
あんな器、見た覚えがない。多分食器棚のどこかから取り出したんだろうけど、ほとんど開けたことがないから、どの棚に入っているかもわからない器だ。広岡さんが持ってきたなんて言ってくれたほうが信頼できる。次来た時にでも聞いてみるかな。
レンジで温めたばかりで器が冷たいからと油断していたお粥は私の舌をやけどさせるには十分だった。熱すぎるお粥に心の中で舌打ちしながら、飲み物と交互に胃の中に収めると、すぐに部屋に戻った。少し静かに感じる部屋にコンポで小さく音楽を満たすと、カワウソを抱いてベッドに転がった。寝る前にスマホでさやに風邪を引いたことを連絡しておいた。すぐに返信が来た音がしたけれど、そのころには私の意識は闇の中だった。
「だからちゃんと食べないと風邪ひくって言ったのに。」
昼休みが始まるとすぐに人目を惹く大きなビニール袋を提げたさやが私の机の前に立ちはだかった。
「一日で治ったし。気にすることじゃない。」
「熱だして倒れたなら気にすることでしょ。」
さやはその手に持っているビニール袋を私に突き出してきた。受け取るとそれは想像以上に重く、中を見ると、どこから集めてきたのかカレーやハンバーグや牛丼やチリコンカンといった古今東西のレトルト食品が入っていた。
「あやのことだから料理は無理だろうけど、レトルトなら食べられるでしょ。」
「ありがとう。」
あやから素直にありがとうって言ってもらえるなんて、とまるで女神に微笑まれたかのように喜ぶさやに静かにしてと文句を言った。そんな感謝一言でどうこう言われるのは癪だけど、やっぱりさやは卵を冷蔵庫に残していった広岡さんよりは私のことを理解していると思う。
「でも、そろそろいい加減に料理覚えたら? 案外楽しいよ。」
「何を買えばいいのかわかんないし。作って失敗するくらいならレトルトのほうがまし。」
そんなことないと思うけどなぁ、と言いながらさやは自慢のお母さんお手製のお弁当の具材をまた一つ口に放り込んだ。彩と味と量と栄養、お弁当に必要な要素を考えて作られているお弁当はいつもおいしそうに見える。けれど、そんなものを私が簡単に作れるはずはない。だから、今もこうして菓子パンをほおばっている。
「そういえば、昨日って広岡さんが来たんじゃないの?」
「あー、うん。来たよ。でも、体調悪いから帰ってもらった。風邪移すわけにはいかないし。」
一瞬正直な話を伝えようかと迷ったけど、さやがなんて反応するかわからなかったからあまりきれいではないうそをついた。それもそうだよね、と返事をするさやの声は私の胸を少し苦しくさせた。
「逆に昨日さやがお昼休み来なかったのはなんかあったの?」
私がそう言うとさやは少し口ごもった。
「ちょっと頭が痛くてね。午前は寝込んでて午後から来たんだ。」
「じゃあ、さやの風邪をもらったんだ、きっと。」
そうかもね、なんてさやはあっけらかんと笑った。
「私もお母さんに心配されて卵焼き詰められちゃったから、食べて。」
有無を言わさず私の口に地層みたいな断面をした卵焼きが押し込まれた。卵のまろやかなコクの裏にやさしい甘さがじわっと広がる。私が食べ終わらないうちにさやはお弁当を片付けると私の頭をなでて自分の教室へと帰っていった。口の中にほのかな甘さがいつまでも残っていた。教室の前のほうで畠さんに広岡さんがいつもの自嘲的な笑みを浮かべている姿が目に焼き付いた。
その数時間後、私と広岡さんは私の部屋で向かい合って問題集をにらんでいた。昨日できなかった分の家庭教師をやると私が連絡したら、五分後には二つ返事が返ってきた。一種の社交辞令的な申し出のつもりで、畠さんたちと遊ぶものだと思っていたから想定外だった。
「ねえ、黒瀬さん。ここ教えてよ。」
細い指でくるくるとペンを回しながら広岡さんが顔を上げた。ラブゲームで負けた卓球選手のような表情をしていた。そういえば、最近この部屋ではあの笑い方を目にする機会が少なくなっていた。
「その問題はその方法だと多分うまくいかない。やり方変えたほうが多分簡単に解ける。」
時々広岡さんはワトソンやレストレード警部のような失敗をする。でも全員が登場した文字の回数から解読できる必要もなければ、豪華賭博客船に乗り込む必要もない。必要なのは間違いに気づいたら立ち戻る勇気と、新しい仮説を立て直すことだ。
「うまくいかないときは別のやり方を模索するのも大事。でもここまで挑戦したのはいいことだと思う。」
「黒瀬さんに褒めてもらえると嬉しいね。」
広岡さんは親に褒められた少年のように喜んだ。この表情も初めて見たような気がする。それから広岡さんは私が教えたやり方で問題に立ち向かうと、そう時間がかからずに答えが出たらしかった。 「じゃあちょっと休憩。それにしても、黒瀬さん昨日はあんなに熱が高かったのに、よく一日で体調が治ったね。」
「風邪くらい一日で治せる。けど、昨日はありがと。」
「どういたしまして。」
広岡さんの声にはどこか誇らしさがこもっていた。広岡さんは私が買ってきたスナック菓子を左手でつまむとポリポリとかじって食べた。
「あの後ちゃんとお粥は食べられたの?」
「食べた。」
「卵は使えそう? 勝手に買ってきちゃったごめんだけど、卵ならなんにでも使えるかなって。」
卵なんて見た覚えがない。私が答えないでいると、広岡さんが不思議そうな顔をした。
「卵は言ってたでしょ。扉開けた右側のところの収納する場所に。あとで一緒に見に行く?」
「自分で見るからいい。それよりそろそろ勉強。」
私が勉強する姿勢に入ると、広岡さんもいやそうな顔をしつつ視線を下げた。今日家庭教師をやるって言いだしたのにはもう1つ理由がある。それは今週末に模試が行われるからだ。そして、広岡さん曰く模試でも悪い成績を取ると門限に関わるというし、1つ学習の成果が見られる機会だからそれまでに少しでも仕上げたい。
シャーペンがノートにこすれる音、シャーペンをノックする音、シャーペンを置いて消しゴムを拾う音、広岡さんのため息、小さな音の集まりが静かな部屋に満ちる。久しく手ごたえのある問題に、知識と思考を余すことなく使っていたせいで、広岡さんに声をかけられていることに気づけなかった。
「黒瀬さん?」
「ちょっと待って。」
ようやく手でつかめそうな光明が見えていたので、視線を上げるまでもなく答えてしまった。広岡さんの小さな笑い声が耳をかすめた。問題の道筋がついて顔を上げると、どこか懐かしさを感じさせる表情の広岡さんと目が合った。
「それで、何?」
ハッとしたように広岡さんの表情がいつもに戻った。 「この問題教えてもらいたいなって。それでもう今日は時間的にもちょうどよさそうだし。」
広岡さんが見せてくれたのはちょうどさっきまで私が解いていた問題だった。しかも広岡さんは私とは違うやり方で問題に迫っていたらしい。
「私とは違うやり方だけど、なんとなくそれでも解ける気がする。ここをこうしたらいいんじゃない?」
適当なアドバイスをしながら頭の中で広岡さんの手法で解いてみる。ちゃんとアドバイスした通りの方法で答えは出せることがわかると、残りの部分は広岡さんに自分でやるように言った。ノートに数式を書き連ねながら広岡さんが言った。
「黒瀬さんってすごいよね。自分とは違うやり方でも、ちょっと見ただけで解き方わかるんでしょ? そしたら勉強も楽しいのかな。」
「別に分かったわけじゃない。ただ解けそうって思っただけ。」
小さな証拠から犯人が断定できるわけじゃない。ただ小さな証拠からいくつも仮説を考えて、全部の証拠がつながる仮説を選んでいるだけだ。すべての問題に説明が付く答えが真実だと信じて。