第10話

先に飲み物だけ持ってきたよ。」

 やかんで沸かしたお湯を水と合わせて白湯にして、さっきと同じ味付けをしたものを黒瀬さんのもとまで運んだ。買い物に行く前とは打って変わって、ドアに背を向けてカワウソを抱きながら分厚い漫画雑誌のページを行ったり来たりしていた黒瀬さんが、寝返りを打って私のほうを見ると飲み物を奪うようにとって飲んだ。その時に黒瀬さんの額にシートを貼り忘れたことを思い出した。

 ちょうどいいと思ってちゃぶ台に放置されていたシートの箱から一枚取り出すと、薄いセロハンをぺりぺりとはがす。いざ黒瀬さんに貼ろうとすると、黒瀬さんはそっぽを向いてしまった。

「ちょっと、これ貼るだけなんだから我慢してよ。」

「やだ。それ貼ったら寝なきゃいけないし。」

 寝言か熱の影響かよくわからないことを言う黒瀬さんに、別に寝なくてもいいから貼らせてよと言うと、おとなしくこっちを向いてくれた。相変わらず漫画からは手を離さないし、前髪がそれなりに多いので、漫画の邪魔をしないように気を付けつつおでこにシートを貼る。あれだけ嫌がっていたのに、やっぱりおでこが冷えると気持ちいいのかさっきよりも気持ち顔が和らいだように見える。

「おかゆ、もう少ししたらできるけど食べられそう? それともまだお夕飯には早いかな。」

「どっちでもいい。」

 漫画に対してお粥はつゆほどの興味もないといったような態度で、飲み物のストローを口に含みながらカワウソを抱いている。どっちでもいいって言ってるんだし作っちゃえばいい。キッチンに戻ると鍋をもう一度火にかける。卵にうまく火が通るまで何度か水を足して、お粥と重湯の間くらいのものができた。柔らかいとか味が薄いとか文句をいう黒瀬さんが頭をよぎった。

 食器棚からちょうどよさそうな青い器を取り、引き出しを開けてみるとスプーンもあったのでお皿に入れた。お粥を入れると磁器の器の表面は一瞬で熱くなったけど、冷めないうちに食べてほしくて素手で器をつかんだまま黒瀬さんの部屋まで運んだ。

「はい、お粥作ってきたけど食べられそう?」

 漫画を置いてカワウソを抱きしめていただけの黒瀬さんがベッドの上で起き上がった。   「卵粥だよ。ちょっと熱いと思うけど、やけどしないように気を付けてね。」

 黒瀬さんの隣に座って、スプーンで黒瀬さんに食べさせてあげようとすると、右手をつかまれる。

「自分で食べるから。」

「今日は食べさせてあげる。落としてやけどしても困るしさ。」

「広岡さんは困らない。」

 確かにそうかもしれないけど、と言い淀みながらもスプーンは黒瀬さんに渡さなかった。風邪で弱った力では奪えないと悟った黒瀬さんは無言のまま小さく口を開けた。掬ったお粥に軽く息を吹きかけてから黒瀬さんの口元に運ぶ。椿姫にするときみたいに、あーんと言ってしまいそうになるのを抑えて、スプーンの先を黒瀬さんの口の中に入れると、お粥だけ取ってスプーンは口の外に追い出された。

「どう? 熱くない?」

「熱い。」

 一口飲みこんだ黒瀬さんは不満そうにそれだけ言うと、また小さく口を開けた。熱いと言われはしたけれど、美味しくないとも、もういらないとも言わなかったことには少し安心した。次はもっと息を吹きかけて冷ましてから食べさせると、少し噛んだだけで飲み込んでしまった。

「ちゃんと噛んでから飲み込まなきゃお腹に悪いよ。」

 黒瀬さんは少しだけ口をとがらせると、すぐにまた目を閉じて口を開けた。ペットに餌付けするときってこんな感じなのかな、なんて思いながら一口、二口とお粥を黒瀬さんに食べさせる。もう少しで半分といったところで、黒瀬さんがもういいといったので、飲み物を最後に一口だけ飲ませてあげると、黒瀬さんは座ったままゆっくりと舟をこぎ始めた。

 ちゃぶ台に突っ伏すように倒れてうなされていたころから、心地よい息遣いで寝ているところまで回復してくれて本当に良かった。それまで黒瀬さんの異常に一切気づかなかった私も私だけど、体調が悪いのを隠そうと無理をしていたんだと思う。来た時からそこまで暑くないのに暖房が付いていたり、わざわざ私服に着替えていたのも今考えればそういうことだったんだと気づかされる。

 そういえば今何時だろう。手元の腕時計を見るまでもなく、窓から見た外の景色は、すでに月と星が町を照らしている。いつもなら既に家についていてもおかしくない時間だし、今の黒瀬さんの状態なら私がいなくても大丈夫なはず。そろそろ帰るから、と切り出そうとした時だった。

 ぽすっ。

 私の左肩と頬のあたりに何かがぶつかったまま離れなくなった。横を向くまでもなく、もたれかかってきたのは黒瀬さんだ。私が反発しないからか、少しずつかけてくる体重が増えてくる。

「ほら、せっかくベッドあるんだからちゃんと寝な。」

 声をかけても黒瀬さんは動こうとはしなかった。横目に見て、意識があるのはわかっていたけれど、言うことを聞いてくれないこともわかった。仕方なく黒瀬さんを起こさないようにしながら、飲み物とお粥の入った器をちゃぶ台に置くと、黒瀬さんの腰に手を回してベッドに寝かせた。手を放してからびっしょりと自分の手が湿っていることに気づいた。こんなに汗かいていたら寝苦しいに違いないと思って、カワウソを黒瀬さんに乗せると、少し部屋の中を見回してみる。それで、部屋の隅にクローゼットが備え付けられてあるのが見えた。

 さすがに同性とはいえクローゼットを開けるのは、ダメなことのように思える。でも、あのまま黒瀬さんを寝かせていたら、体を冷やしてもっと悪くなるかもしれない。一応黒瀬さんが起きているか確認してからにしてみようと思ってベッドのそばにしゃがみ込んでみると、足元に引き出し式の収納ケースがあった。しかもちょうど見えるところにタオルがあったので、黒瀬さんを起こさないように慎重に手前から一枚抜き取った。

 黒瀬さんはカワウソを抱きしめたまま気持ちよさそうに寝息を立てている。よく見るとその首筋にも汗がしっとりと浮かんでいた。見える範囲から拭うことにして、首筋にタオルを当てると腫れている扁桃腺に手が当たって黒瀬さんの呼吸が弾んだ。パッとタオルから手を放して、三秒間ゆっくりと数えていると、黒瀬さんの呼吸もさっきまでのものに戻っていた。

 メイクがタオルにつかないように顔は額を中心に拭った。少し後頭部のほうもと思って頭を持ち上げようとしてみたけど、想像していた何倍も重くて枕と頭の間にタオルを挟み込むことはできなかった。椿姫は言わなくても、悠楓はいやいや言いつつ自分から頭を持ち上げてくれるから簡単にできていたんだと気づかされた。

 腕や脚は少し服をまくると手のひらや足先とは比べ物にならないくらいじっとりとしていた。一か所拭うたびに一呼吸おいて、次の場所に移動した。いつの間にか、タオルがぎゅっとつかめば手が湿るようになっていた。

 あとは、やっぱりお腹や胸のあたりかな。体としては一番汗をかく部分だから、そのままにしたら気持ち悪いと思うし、拭いてあげたら気持ちいいはず。お腹を冷やさないように、パーカーをまくらないままタオルを持った右手をキャミソールの下に潜り込ませる。手の甲に当たるキャミソールの感触は心地よいものとは言えそうにもないものだった。

 少し手を伸ばして上半身全体を拭き終えると洋服を元に戻して毛布を掛ける。黒瀬さんのお腹の上のカワウソの眠そうな顔がちょうど毛布から少しはみ出していた。君が黒瀬さんを守るんだよ、とカワウソにお願いして、その頭をポンポンとなでた。

 心地よい寝息を立てている黒瀬さんを横目に、ちゃぶ台に残されたお粥と飲み物を見ながら考える。多分私にできることはもう全部やったはず。あとは使った鍋とかの片づけをして、書置きをするくらいかな。もう一度黒瀬さんの手を少し握って、だいぶ熱が落ち着いたのを確認すると、やるべきことを片付けた。

 書置きは一応黒瀬さんにあてたものと、もしかしたら帰ってくるかもしれない黒瀬さんのお父さんにあてたものを作っておいた。黒瀬さんあての書置きをちゃぶ台に置くと、最後にもう一回黒瀬さんの額のシートを交換した。こうやって近くで見ると黒瀬さんは整った顔立ちをしていると思う。ただ、前髪か、一重の両目か、何かが雰囲気を暗くしているだけで、きっとメイクしたらもっとかわいくなると思う。

 私は自分のカバンから黒瀬さんのお財布を元の場所に戻すと、代わりにさっき使ったタオルを詰めて左手に持った。ベッドの上の黒瀬さんにお大事にと声をかけて部屋を後にする。外はもう宵闇と言ってもいい時間帯で、このまま帰ったら怒られるのはわかっている。今日はなんて言い訳をしようかな。野恵たちと別れた後だったら嫌なこの時間も、今日は穏やかに寝ている黒瀬さんの顔を思い出したら少しだけ楽しかった。

updatedupdated2026-04-112026-04-11