「おかゆと卵も買っておいたほうがいいかな。」
近場のスーパーで黒瀬さんの食べられそうなものや看病に必要そうなものをかごに入れていく。買い出し自体は家族のために週に何回も行っているから、棚の奥のほうから物を取ったり重いものをかごの下のほうに入れたりする癖が染みついている。でも
「なんで私、ここまでしてるんだろう。」
椿姫や悠楓のために看病したりご飯を作ったりするのは、私の義務だからやっている。でも、黒瀬さんのための買い出しは私がやる必要はないはず。そうわかっているのに、辛そうな黒瀬さんを見ていたら何かしたくなって、気が付けばご飯の準備までしている。まあ時間を割いて体調悪いの隠してまで勉強を教えてもらって、追加であの部屋まで見てしまった私にはちょうどいい罰だ。
セルフレジに商品を通しながら、ベッドに横たわっている黒瀬さんを思い浮かべる。初めて勉強を教えてもらったとき、黒瀬さんはちょっと怖い人だなって思った。ずっと教室の隅で勉強をしているか小説を読んでいるかしか見たことない。学校で話しているのもあとから名前を知った一ノ瀬さんくらいしか見たことがなかったし、何より普段から目つきが鋭い。いつも人より少し先を見つめていた。
何もかも初めから私が悪いんだ。野恵や恵美と遊ぶ時間が楽しくて、家に帰るのが嫌だから門限が短くならないように同級生の目立たない子に家庭教師をしてもらおうなんて、ひどいことだと思う。挙句の果てには体調が悪い中、それを隠しながら勉強を教えさせてしまうなんて、最低な生徒だ。
「お客さん、どうかしましたか?」
背後からの声にとっさに大丈夫ですと答えてしまった。商品を読み込ませ終わってから固まっていたらしい。支払いは私の財布からでいいや。またお父さんに怒られるかもしれないけど、それも今日はいいように思えた。
あと買わないといけないのは漫画本だ。あの様子の黒瀬さんを家に長時間待たせるわけにはいかないし、手近なところで漫画雑誌がありそうなところと思ってコンビニに入ると、案の定出入り口からすぐのところの本棚に何冊か並んでいた。並んでいるのは少し大人向けのものばかりだけど、黒瀬さんはどんな漫画が読みたいんだろう。さっき本棚で見たのはほとんど背表紙が読めなくなっていたけど午後五時くらいにアニメをやっていそうな作品ばかりだったように見えた。
「わかんないし、これでいいかな。」
野恵やその周りの人が良く話題にしている作品が多く入っている雑誌を選んだ。決済を済ませてマンションに戻り、オートロックの前に来て固まってしまった。オートロックの鍵を黒瀬さんから借りてない。黒瀬さんの様子を思うと呼び出しても出られそうにないと思うけど、買ってきたお粥とかを渡すには呼び出すしかない。
「ほんと、私って馬鹿だなぁ。」
お遣い1つまともにできない、使い物にならない人間だ。ダメもとで黒瀬さんの部屋の番号を押す。今更ダメな人間なことなんてわかってるんだし、怒られるのはいつものこと。自分に言い聞かせて呼び出しボタンを押した。
呼び出しのチャイムが一回鳴り終わる前に、目の前のガラス戸が開いた。
「え?」
まさか黒瀬さんが開けてくれたのかな。さすがに熱でうなされてた様子から、立ち上がってる姿なんて想像できない。悠楓でも寝込んでいるような熱だったし。もしかしたら別の部屋の人が確認しないで開けてくれたのかもしれない。そう信じて私は黒瀬さんの家へ急いだ。家の前に着くなり扉を開ける。取っ手を持つ右手に強い空気抵抗がかかった。 「いろいろ買ってきたよ。って黒瀬さん?」
返事がないと思って黒瀬さんの部屋のほうを見たけど、彼女の姿は見当たらなかった。さっきまで黒瀬さんが寝ていたはずのベッドの毛布はめくれていて、カワウソが寝る隣に漫画本と保冷剤を巻いたハンカチが転がっている。
「私ならこっち。あと財布の中に鍵入ってるでしょ?」
背中からかけられた声に振り返ると、シンクの前に立って水を飲んでいる黒瀬さんがいた。私の目が黒瀬さんの鋭い視線と一瞬交わってからすぐに目をそらしてしまった。
「あ、ごめん。見ちゃいけないよね。」
「別にいいから。何かキッチンでしたいなら勝手に使えば。」
言われるがままにキッチンに入ると黒瀬さんの隣に立って冷蔵庫を開けてみた。開き戸のところに立てられているオレンジジュース以外、空っぽな棚に一瞬身動きが取れなくなったけど、黒瀬さんの痛い視線に急かされて、卵をしまうとすぐに冷蔵庫を閉めた。
「そういえば黒瀬さん、体調は?」
「もう治ったから、帰っていいよ。うつしたくないし。」
自分で聞いておきながら悪いと思うけど、買ってきた荷物を置いて目線の少し下にある黒瀬さんの額に手を当てた。乾燥はしてるけどさっきと熱さはほぼ変わらなかった。
「さっきとあんまり変わってないから、寝てないとだめだよ。あと、冷たいもの飲むとお腹がびっくりするよ?」
「お腹はびっくりしない。」
冷静に突っ込みを入れながら、なおも水を飲もうとする黒瀬さんの肩に手を置く。
「飲み物も私が持ってってあげるからさ。今は寝てなよ。」
「なんか、広岡さんらしくない。」
そう言い残して黒瀬さんはあきらめたように自分の部屋に戻っていった。こんな看病したり叱ったりするのは私らしくないかな。やっぱりやめたほうがいいかな。でも、せめて買ってきたものの片づけくらいまではしないといけないよね。とりあえず水が飲みたそうだったから、さっきと同じ飲み物を作っていると、黒瀬さんが私に命令した。
「漫画、持ってきて。」
そういえば黒瀬さんが唯一お願いしたのは漫画だった。私は作りかけの飲み物を置いて漫画と額に貼るシートだけ持って黒瀬さんの部屋に入る。カワウソを抱いてベッドに横になった黒瀬さんは私の右手の漫画から左手の箱に視線が移動すると急に視線が険しくなった。
「それ、私嫌いなんだけど。」
「そうかな。私はこれ気持ちいいと思うけど。」
とりあえず先に漫画を渡す。私から漫画を奪うなり、黒瀬さんは最初のページを開いて読み始めた。とりあえずお気に召したようで何よりと思って、シートを箱から出すと黒瀬さんは壁のほうを向いてしまった。
「ちょっと、そっち向かれると貼りにくいんだけど。」
「貼らなくていいから。」
「貼ったほうが楽になると思うけど。」
そう言ってもこっちを向こうとはしてくれなかった。こういう時の黒瀬さんに何かを言っても聞き入れてもらえることはないのは知ってる。私はあきらめて箱をちゃぶ台の上に放置するとキッチンに戻る前に黒瀬さんに一つ聞いた。
「キッチンのコンロ借りてもいい? あとお鍋とやかんも使いたいんだけどどこにあるか教えてほしいかな。」 「何に使うの?」
「買ってきたお粥を作ろうと思って。あとやっぱり冷たい飲み物だとお腹に悪いからさ。」
「鍋ならシンクの下の引き出しに入ってる。」
やかんは? と聞いたけど黒瀬さんはつまらなさそうに知らないと答えた。自分の家でやかんの場所を知らないなんてことはあるのかな。そっちのほうがわからないけれど、キッチンに戻ると言われたとおりに引き出しを開けてみた。
「やかんもここにあるじゃん。あるなら言ってくれればいいのに。しかもなんだか高級な感じ。」
引き出しには一人用の片手鍋が一番手前に比較的綺麗な状態で入っていて、その隣にはパスタが茹でられそうな両手鍋、その奥には底が広くてドット模様のような見た目の持ち手が細いやかん、大小さまざまなアルミのボウルと耐熱ガラスボウルが並んで埃をかぶっていた。
やかんに水を入れて、火にかけようと思ってコンロを見て思い出した。このコンロには油汚れではなく綿埃や糸くずのようなものが付いているんだった。このまま使おうとしたら燃えちゃう気がして、五徳を外して少し埃をはたいて落とした。三口のコンロは一番シンクに近いところのだけは少し綺麗だった。そのコンロは手動でかなりの強火にできるらしく、その隣は自動消火機能が付いている。せっかくこんなにいい道具がそろっているのに、料理しないなんてもったいない。
水を入れたやかんと、買ってきたお粥と卵を入れた鍋を火にかけながら、黒瀬さんがここに立って料理をしている姿を想像しようと思ったけどうまくできなかった。とにかく今は黒瀬さんにおいしいものを食べて早く元気になってほしい。それがここまで迷惑をかけた私の罰だから。