「ちょっと、黒瀬さん!」
急にちゃぶ台の上に突っ伏した黒瀬さんにいくら声をかけても返事がない。最初は悪ふざけかと思ったけど、聞こえてくる呼吸は荒かった。あとで怒られるかもと思いながら黒瀬さんの手に触れると、幼い子供の手のような温かさを感じた。まさかと思って左手は私の、右手は黒瀬さんの額に触れると、右手だけ熱くしっとりと湿っていた。
こんな状態で勉強を教えてくれていたことへの申し訳なさと、病人を放っておけないという気持ちが黒瀬さんの体をベッドまで運ばせた。野恵たちに比べたら非力な私でも簡単に抱えられる黒瀬さんは、私の脇腹辺りをぎゅっとつかんでいた。ベッドに降ろしても私のブラウスをつかんだままだったから、隣にいたカワウソの抱き枕を胸のあたりに置くと、抱き枕を抱きしめて丸くなった。顔は見るだけで熱を帯びているのがわかるし、目じりに浮かんだ涙は何度も枕に吸い込まれていく。
どうしよう。
とりあえず、熱が辛そうだから何か体を冷やしてあげるものが必要。それに風邪薬とお粥みたいに消化にいいものを用意したほうがいい。でも、私はこの家のことを知らないし、勝手に部屋を見て回ったら怒られる気がする。困ったことに私は一ノ瀬さんの連絡先を知らないから彼女に看病を任せることもできないし、多分待っていても黒瀬さんの両親が家に帰ってくるにはかなりの時間がかかるか、もしかしたら帰ってこないかもしれない。
悩んでいる間にも、黒瀬さんは顔をしかめながら抱き枕が折れるくらい強く抱きしめて喘いでいる。もう一度額に手を置くと、さっきよりも熱が上がってきているし、手を拭きたくなるくらいの汗が手に付いた。
どうせ親のおかげで怒られるのには慣れてるし、と自分に言い聞かせて黒瀬さんの泣き声に後ろ髪をひかれながらも部屋を出た。この部屋の隣にはもう一つ部屋があるけど、そこは作りからしてもう一つの寝室だと思う。だから、氷嚢やご飯を探すには黒瀬さんに立ち入り禁止されているキッチンと思われる部屋しかない。意を決して引き戸を開けると、目に映ったものに一瞬思考が停止した。
そこは確かにリビングとダイニングキッチンだった。真ん中に大きな机があり、一脚と二脚の椅子が向かい合っている。机の上は一部分には手紙らしい書類や通帳などが積み重ねられ、一部分はランチョンマットを置いていたらしいくりぬかれたようにきれいな場所があり、残りは埃が積もっていた。
部屋には二つ窓が取り付けられているけれど、両方とも雨戸が閉められていた。カーテンレールには私が着ているものと同じブラウスとシンプルな下着やタオルがハンガーにかけて干されている。部屋の隅にはこの前黒瀬さんと一緒に遊んだゲーム機とテレビが置いてあった。
嫌でも目に飛び込んできた光景を見ないようにしてキッチンに入ろうとすると、何かが足に当たって軽い音を立てた。下を向くとスーパーの陳列棚の上にあるようなカップ麺の段ボールだった。この前もレトルトしかないって言ってたし、こんな食生活を送っているんだろうか。
とりあえず何か冷やすものだけでもと思って冷凍庫を開けると、レトルトのハンバーグのパウチ2つとケーキ屋さんがくれそうな保冷剤4つのほかには何も入っていなかった。保冷剤を取り出すと、ハンカチでくるんで黒瀬さんのところまで持っていった。さっきよりも呼吸が落ち着いている黒瀬さんの額に保冷剤をまいたハンカチを当てると少し表情が和らいだ。
もう少し黒瀬さんの容体が落ち着くのを待つ間にさっきのリビングの風景を思い出していた。人が生活している場所と忘れ去られた場所がつぎはぎにつなげられているみたいだった。黒瀬さんが見せたくなかった場所、きっと誰にも見せずに隠し続けていた部屋、それを暴いてしまった罪悪感がこみあげてくる。私をとがめる私に、仕方なかったとか黒瀬さんのためにはなんて言葉を投げつける。
「ひろおか、さん?」
ほんのわずかに鼓膜を震わせただけの声に、私は必要以上に反応してしまった。
「黒瀬さん、起きたんだね。」
静かにして、という声には私の名前を呼んだ時よりも芯があった。それを聞いて私は胸をなでおろす。なるべく声を抑えてささやくように話しかける。
「風邪ひいてるみたいだから、とりあえず休んでて。お腹空いてない?何か欲しいものある?」
「いらない。自分でやるから帰って。」
黒瀬さんの額から落ちた保冷剤の位置を直したときに、手に熱い息がかかった。 「その体じゃご飯も作れないと思うし、病人を放置して家には帰りたくないし。」
「じゃあそこにある漫画とって。」
黒瀬さんの頭の上にある本棚を見ると、ちょうど手の届きそうな場所に背表紙の文字がほとんど読めなくなった辞書より一回り薄いくらいの子供向けの漫画雑誌が何冊か並んでいた。一番手近にあったものを取り出して黒瀬さんに渡すと、初めのページからパラパラと読み始めた。この様子なら少し目を離しても大丈夫そうだから、私は必要なもののありかを聞いた。
「この家にお米とかおかゆのレトルトってある? あとおでこに貼るシートと風邪薬。それと体温計。」
「体温計ならそこ。」
漫画から手を離さないまま人差し指で示したのは机の引き出しだった。そこを開けてみると絆創膏や傷用の消毒液と並んで体温計が入っていた。
「挟むのめんどくさい。」
私が体温計をケースから取り出そうとすると不満の声が聞こえてきた。
「脇に挟みたくないなら咥えておいて。」
閉じることを忘れたような口に細い体温計の先端を押し込むと、少し遅れて黒瀬さんが唇を結んだ。黒瀬さんは不満そうに唇を引き締めながらも、漫画から目線を離さないでいた。ふと何年か前に兄弟の看病をした時のことを思い出した。まだ幼かった妹の椿姫はいつになく駄々をこねてきたけど、悠楓はお母さんに看病してもらいたいなんて言ってたっけ。そのあと私が風邪をうつされたときのことは、思いだしたくない。
計測終了の音を聞いて確認すると38度8分と、悠楓ですらぐったりしそうな高熱だ。
「もう一回確認するけど、お米もレトルトのご飯もないんだよね。」
「ない。」
「さすがに塩と砂糖はあるよね?」
ガス台のお隣の調味料棚にあると聞いて取りに行こうとして思いとどまった。
「あの部屋、入ってもいいの?」
「どうせもう見たんでしょ? なら今更じゃん。」
黒瀬さんの声が私をとがめているように聞こえて、私を責める私が顔を出す。ごめんとだけ言い残して、キッチンに向かった。塩と砂糖を取り出してにおいを確認すると、どっちも問題なさそうだったので、空いているグラスに水と少しの塩と砂糖を加えて味見をする。実家だったらはちみつやしょうがを加えて飲みやすくするけれど、この家で探すのは少し無理があるような気がした。黒瀬さんの部屋に持っていくまでの間、少しでも温めようと両手でカップを覆い続けた。
「あんまりおいしくないけど、とりあえずこれ飲んでみて。」
いまだに漫画に夢中になっている黒瀬さんにカップを渡そうとすると、あからさまにいやそうな顔をした。私がカップを口に近づけると、文句を言いながらも少し口を開いたのでカップを少し傾ける。二口含んだところで止めると、黒瀬さんはそれをゆっくりと飲み込んでから、体温計があった引き出しより下の引き出しを指さした。そこを開くとストローの束が入っていたので、カップに刺して渡すと、今度は一気に飲み始めた。
「あんまり一気に冷たいもの飲んだらだめだよ。一口ずつ口の中で温めて飲んだほうがいいよ。」
唇を尖らせながらなおも飲み続けている黒瀬さんを見て、だいぶ良くなったことを確信した。私の前で倒れた時は最悪は救急車とも思ってたけど、これなら何とかなりそうだ。
「黒瀬さんがそれ飲み終わったら買い物行ってくるけど、なんかほしいものある?」
「いらない。というか、帰って勉強しなよ。」
「病人置いて帰れないってば。」
私の声にかぶせるように小さく黒瀬さんが言った言葉を聞き返すと、さっきよりも大きな声でほしいものが告げられた。
「漫画。何でもいいからたくさん載ってるの。」
「漫画ね、わかった。」
漫画なら今読んでるのがあるじゃんと思ってしまったけど、頼まれた以上は買いに行こう。私が踵を返して部屋を後にしようとしたとき、黒瀬さんに呼び止められた。言われた通り、黒瀬さんのリュックを漁って、小さなチャック式のお財布を私のリュックに移すと黒瀬さんの家を後にした。