うまくいかない日。朝から寝坊をしてお昼ご飯を買いに行けず、教科書を忘れた授業で当てられ、お昼休みにさやが遊びに来なかった。さっさと家に帰って鍵をかけ、ゆっくり音楽をかけながら小説を読みたいような日に限って、広岡さんの家庭教師が入っている。
空腹でいつも以上に長く感じた授業が終わり、寒さで重くなった頭を引きずるようにして学校を後にした。音もなく時間は季節を追い越していく。時々強く吹く北風が隣の人のマフラーをたなびかせるのを見ながら、家に置いてきた防寒具の代わりに手で首を覆った。
家に着くと自分の部屋の暖房をつける。暑かったわけではないけれど、なぜか体に張り付いている制服を脱いで、クローゼットから着古した裏起毛のTシャツとジーパンに着替えた。追加でパーカーを羽織るとだんだん暖かくなってきて、今度は急に喉が渇いてきた。キッチンに行って水を汲んで戻ろうとすると、オートロックのチャイムが鳴った。
広岡さんの姿を確認するまでもなく解錠して自分の部屋に戻ると、今度は異様に部屋が暑く感じてエアコンを切った。
「失礼しまーす。」
聞きなれてきたはずの広岡さんの声が窓の向こうでなくセミのように鬱陶しく感じた。適当に返事をすると、片手にビニール袋を提げた広岡さんが目に入った。
「なんか暑くない? さっきまで暖房付けてた?」
「暑くない。あと少し声落として。」
そっか、という広岡さんの声が今度は急に遠くに感じる。一緒に食べよと言ってビニール袋から出てきたのはこの前にさやが買ってきてくれたポテトチップスだった。ビニール袋とポテトチップスの袋のこすれる音、ポテトチップスの袋が開かれる音、それをほおばる広岡さんの咀嚼音、すべてが煩わしかった。それでも、せっかくだからと思って一枚口に入れると、食べなれたはずの味外国の料理でも食べているようで、胃液がこみあげてくるのを無理やり押し流した。
「今日は課題があるからそれやりたいんだけどいい?」
「勝手にすれば。」
広岡さんが勉強道具を出しているのを見ても、参考書を机に広げる気にすらなれなかった。代わりに今日は読む暇すらなかった小説を取り出して、適当に開いたページから読み始めた。探偵が犯人を追い詰めるシーンは読み返しても変わることはなくて、むかむかしていた胃が少し静まるのを感じた。
「ねえ、黒瀬さん、聞いてる?」
広岡さんらしくない少し荒い声に視線を上げる。
「ずっと呼んでたんだけど。とりあえずここ教えてもらっていい?」
そういわれて示された問題を見てもいつものように答えが浮かんでこない。ノートに残された広岡さんが悪戦苦闘したらしい痕跡を見て道筋をたどりながら説明をしているうちに、何とか答えまでたどり着いた。頭の中でもう一回考え直してみれば簡単な問題だった。小太りな探偵に灰色の脳細胞をもっと働かせるようにと言われそうだ。
そのあとも何回か広岡さんの質問に答えて、課題の終わりが見えたところで一度休憩になった。ブレザーもパーカーも脱いでブラウスのボタンを一つ開けた姿の広岡さんを見ていると暖房をつけたくなる。暑くないのという広岡さんの声を無視して暖房をつけると、今度は急に汗がTシャツと皮膚を張り付ける。
「ポテトチップス、食べないの?おいしいのに。」
「いらない。」
もう一度食べたら、今度こそ胃に収まっているものがこみあげてきそうだ。 いつの間にか空になっていたグラスを手に立ち上がろうとすると、視界が急に狭くなった。時々怒る立ち眩みなら収まるのを待とうとしていたけど、いつの間にか平衡感覚も薄れていく。感じるのは腕の下にある本の柔らかな感触と私の名前を呼ぶ広岡さんの声だけ。それすらも地球の反対側にあるような気がした。