第5話

 お昼休みが終わったころに黒瀬さんから届いたメッセージで、今日の家庭教師のことを思い出した。でも、それ以上に意外な内容がそこには書かれていた。

「今日は生徒が一人多いから」

 多いからなんなんだろうか。何か用意するものがあるとか、逆に気にする必要はないとか書いておいてほしいと思いながら授業が終わると私はいつものように時間をつぶしてから黒瀬さんの家に向かった。もう一人というのはいったい誰なんだろうか。同じクラスにいるけれど、私は黒瀬さんの交友関係はあんまり知らない。もう一人よりも、もう一匹とか言って猫でも連れてきたほうが彼女らしいような気もする。

 もう何度目になるか数えるのも少し手間なほど黒瀬さんの家に通ったから道は思い出すまでもなくなった。スーパーの場所やよく見かける小学生やランニング中のおじいちゃん、電柱に貼ってある広告まで大体頭に入ってしまった。

 いつも通りにオートロックで呼び出して黒瀬さんの部屋に向かう。エレベーターでいつもの階についてから珍しく少しだけ鼓動が高鳴るのを感じた。それでも、大きく深呼吸してから扉を開けた。

「失礼しまーす。」

 すると、黒瀬さんの声よりも先に、別の声がした。

「広岡さん来たんじゃない?ほら、行ってきなよ。」

 それからバタバタと足音がいくつかして、黒瀬さんが彼女の部屋から顔を出した。

「入って。」

 いつもと変わらない言葉だったけれど、表情はいつもの無表情や不機嫌ではなく、ダージリンのような豊かな苦みがあった。黒瀬さんがあんな表情をするんだ、なんて思いながら部屋に入ると先客の姿が目に入った。

 ちゃぶ台の前にペタンと座っている、黒髪を三つ編みにして左右の耳にかけ、朗らかという言葉が似合いそうな人だった。名前は思い出せないけれど、確かにうちのクラスに顔を出しているところを見たことがある。

「広岡です。黒瀬さんのお知り合い?」

 立ったまま私が挨拶をすると、慌てて立ち上がって礼を返した。

「一ノ瀬紗香です。あやの友人、でいいよね?」

 最後の言葉は黒瀬さんに確認したものらしかった。黒瀬さんは迷うことなく一言、一番の友達、と付け加えた。それを聞いて少しだけ一ノ瀬さんは照れ臭そうにしていた。

 一ノ瀬さんの隣に私も腰を下ろした。それで机の上に広げられているポテトチップスの袋がようやく目に入った。思い返してみれば、私と黒瀬さんで勉強するときに、こんな風にお菓子を出すことは一度たりともなかった。いや、きっとそれは私が買ってくればよかったのに、気が利かなかったからだ。ほかにも、初回以降出されたことのないジュースが一ノ瀬さんの前には置かれていた。

 私がスクールバッグを漁っていると、一ノ瀬さんが黒瀬さんに何かを耳打ちした。それから黒瀬さんが私の立ち入れない部屋に入ると、少ししてからジュースが私の前にも置かれた。

「それじゃあ、今から二時間くらい、勉強頑張ろっか。」

 なぜか一ノ瀬さんが今日の家庭教師の主導権を握っていた。じゃあ彼女が教えるのかと思ったけれど、どうやらそうではないらしく、黒瀬さんが一ノ瀬さんに勉強を教えていた。勉強しながら二人が時々ポテトチップスをつまんでいるのを見て、どうしようか悩んでから黒瀬さんに聞いた。

「これ一枚もらってもいい?」

「さやに聞いて。」

 考えるまでもないといった様子で返答が返ってきた。一ノ瀬さんのほうを振り返ると、好きなだけ食べてくださいと言われたので一枚だけ食べてみた。なんてことはないコンソメ味で、口の中に人工的なうまみと塩味だけが残った。

 勉強してる間、一ノ瀬さんもわからないことがあれば黒瀬さんに聞いている。黒瀬さんが説明する時は一ノ瀬さんほどではないにしても、普段よりも口数が圧倒的に多かった。私が聞いてもいつものように端的に核心を突いた答えが返ってくるだけだった。そのたびにどことなく一ノ瀬さんの視線を感じた。

 一ノ瀬さんと黒瀬さんのやり取りを見ながら、何かに嫌だなと思った。それがなんなのか分からないまま、オレンジジュースを飲み干して、口の中の甘さで心を塗り替えて、目の前の問題に視線を落とした。

「休憩~。」

 ちょうどポテトチップスの最後の一枚を黒瀬さんがとった時に、一ノ瀬さんがそう宣言した。私の勉強は少し中途半端だったけど、いったん手を止めることにした。二人は私を置いて何かの話題で盛り上がっている様子だった。

 一ノ瀬さんはとにかく笑顔が似合うというか、笑顔が表情のファンデーションのようだった。どんな表情にも笑顔が見え隠れするけれど、作り物には見えない。それに、話すのが好きみたいで、二人の会話を聞いていてもほとんど一ノ瀬さんが話している。

 黒瀬さんも一ノ瀬さんといるときには表情が結構変わる。二人の会話の内容が私にはついていけないけど、黒瀬さんの心を動かしている話だということは確かだった。驚いたり落ち込んだり笑ったり、学校でもこの部屋で私の前でも見せたことのない表情ばかり。そんな子ならもっと前から仲良くできたんじゃないかなって思ってしまうけど、きっとそれは一ノ瀬さんの前だからなんだと思う。

 ボーっと二人の様子を眺めていると、急に出てきた自分の名前にはっとした。けれども、それは私のことを呼んでいるのではないとわかって、そぶりを見せないようにした。

「広岡さんの前だからやめなよ。」

「別にいいじゃん。頑張ってるあやが見られたんだし、少しくらいいいじゃん。」    一ノ瀬さんが黒瀬さんの手を左手で抑えると、伸ばした右手を黒瀬さんの頭の上に置いた。さっきまで反抗的だった黒瀬さんの様子が、唐突にしゅんとしていった。なんだか野良猫でも見ているような気分だ。

 それから少しして黒瀬さんはお手洗いに行くと言って席を立って部屋を後にした。オレンジジュースもポテトチップスもなくて、どう沈黙を破ろうかと思っていたら、一ノ瀬さんのほうが先に口を開いた。

「広岡さんがあやに勉強教わるようになったのっていつからなの?」

「1か月くらいかな。」

「なんであやだったの?」

 急に一ノ瀬さんの言葉にガラスのナイフのような鋭利さを感じて言葉に詰まると、一ノ瀬さんの表情が緩んだ。

「ちょっと言い方きつくなってごめんなさい。でも広岡さんとあやが仲良くしてるの見たことなかったし、なんであやに頼んだのかなって。」

 一ノ瀬さんは自分の言葉を柔らかくすることで私に話しやすくさせようとしてくれたんだと思う。けれどもそれは私には逆効果で、今の関係を無理に作ってしまったときのことを考えると後ろめたさが頭を支配する。それでも、何とか一ノ瀬さんが次の釈明をする前に言葉を紡ぎだした。

「テストの点数が悪くて、このままだと赤点を取りそうだったから、誰かに勉強を教えてもらいたくてさ。それで、黒瀬さんだったら頭もいいし、いいかなって。」

 最後の言葉に一ノ瀬さんの表情はわずかにゆがんだ。嫌な予感がして少し無理に話題を変える。

「逆に一ノ瀬さんと黒瀬さんはどんな関係なの?」

「中学生のころからの友達だよ。最初は趣味があう数少ない人って感じだったかな。」

 一ノ瀬さんは私を見ていなくて、遠くの砂漠のラクダでも見ているようだった。

「二人ともレトロゲームが大好きでね。」

 そこから始まった話を要約すると、一ノ瀬さんは母方の実家で遊んだゲームを忘れられずに、小学校のころからレトロゲームに熱中したらしい。けれども、周りで同じ趣味の人はいなくて、偶然中学で出会った黒瀬さんとは話が合ったとか。

 「あやが誰かをこの家に招くなんて思わなかったなぁ。隣の部屋はもう見たの?」

 私が答えるより先に、背後から声がした。

「仕方なく家に入れただけだし、広岡さんにあの部屋を見せるつもりはないから。それに休憩終わり。」

 黒瀬さんは定位置に着くとすぐに勉強にとりかかった。私も残っている課題を何とか終わらせようとするけれど、一度切れた集中がなかなか戻らない。それで少し気になって一ノ瀬さんが勉強しているものを見ると、それもどうやらプリントのようだった。それを見て、一ノ瀬さんが文系の生徒なんだと私は知った。

 こんなこと考えてるようじゃだめだ、と自分に言い聞かせて課題とにらめっこを再開する。それでも結局わからないことばかりで、黒瀬さんに何度も質問をしては教えてもらいながらも、自分の手で何とか解いた。一人だとなかなか解けない問題も、黒瀬さんに教えてもらえれば解けると少し自信になった。

 私が一番最初に勉強が終わり、次に一ノ瀬さんも終わると自然と勉強ムードから休憩ムードに切り替わった。相変わらず二人がほとんど話しているけれど、ときどき私にも話が飛んでくる。

 「広岡さんはこの部屋見てどう思った?」    黒瀬さんと部屋の模様替えについて話していた一ノ瀬さんが、急に話を振ってきた。

「面白い部屋って思ったよ。本がたくさんあるし、コンポとやらがあるし。」

 私は一応真面目に答えたつもりだったけど、一ノ瀬さんは笑いながら黒瀬さんをからかった。

「ほら、面白い部屋って言われてるよ。もうちょっとなんか置いたほうがいいって。」

「これ以上はいらないから。それにさやの部屋だってきれいじゃないし。」

「ちょっと、それは言っちゃダメだって。今のは聞かなかったことに。」

 一ノ瀬さんが急に振り向いて人差し指を唇の前に立てた。それにつられるように私はこくりとうなずいた。二人の様子を見ていると、本当に一番の友達なんだというのが伝わってくる。お互いのことを知り尽くしているんだろうし、傷つけるかもしれない言葉を言い合える。あまりにも作り話が過ぎる青春恋愛の映画でも見ているくらい、二人の様子は私にはまぶしかった。

「じゃあ私は予備校もあるし、そろそろ帰るね。」

 ひとしきり黒瀬さんと話し続けていた一ノ瀬さんが急に立ち上がった。私が黒瀬さんのほうを見ると、帰れば、という言葉が耳元でささやかれているような気がした。

「でも、私まだ何もしてないんだけど。」

 とっさに私がそういうと、一ノ瀬さんが不思議そうな顔をした。

「何もしてないって?」

 黒瀬さんの眉間にしわが刻まれる。また私はミスをした、ほんと馬鹿だな。心の中の自分に言われた言葉にうなだれていると、黒瀬さんが先に一ノ瀬さんを送り出した。

「さやを送ってくるからそこで待ってて。帰りたければ帰ってもいいけど。」

 そういうと、二人はこの家を後にした。閉まる扉の隙間から、さっきのは何だったの、という一ノ瀬さんの声が漏れ聞こえた。

 なんで、うまくいかないんだろう。野恵や恵美となら普通にできていることのはずなのに、黒瀬さんの前だと失敗ばかりしてる気がする。相手を喜ばせる言葉とか、笑わせる話は普段なら簡単に思いつくのになぁ。

 見送りから戻ってきた黒瀬さんは案の定不機嫌だった。私の前に座ると、無言で私のほうを見つめてくる。嫌な沈黙を断ち切りたくて、とにかく口から言葉を出した。

「さっきは気が利かなくて、馬鹿な私でごめん。」

 眉間にしわが一つ。

「私にできることなら何でもするよ。音楽をかけるとか、お菓子買ってくるとか。」

 しわが2つ。

「一緒にゲームするとかもできるよ。下手かもしれないけど。」

 3つ。

 何かをしゃべろうと開けた口は開けたまま、言葉が出てこない。唇だけふわふわと動いているけれど、肝心の話すべきものが見当たらない。そのうちに、黒瀬さんの冷たい声が鼓膜を震わせた。

「もう今日は帰って。」

 驚きと自分への落胆で一瞬笑顔が保てなかった。それでも、言うことを聞かない表情筋に鞭打って笑顔を張り付け直す。

「な、なんでもいいよ。ご飯おごるとかでもいいからさ。」

「何でもいいんでしょ?だったら帰って。」

 黒瀬さんの声は相変わらず冷たくて、心をより重くした。わけもわからず目じりに涙が浮かびそうになる。唇をかんでこらえて、深呼吸をしてからカバンをもって立ち上がった。

「そうだね。これ以上いても邪魔だし、今日は帰るよ。」

 そこでやっと黒瀬さんの額のしわがなくなった。黒瀬さんの家を後にする前に、次は2つお願い菊からといったけど聞いていたのかはわからない。一人でエレベーターを降りてマンションの外に出た。やっぱり私はただの邪魔ものなんだと思うと、少しだけ涙が浮かぶ。夕闇は心を切なくするけれど、同時に寄り添ってくれた。

updatedupdated2026-03-242026-03-24