「なんとか野恵たちと遊べそうだよ。」
私が昨日、両親と相談した話を告げると、野恵は私の腕を小突いた。
「言われなくても遊ぶっての。そういえば、例の黒瀬さんはどうなの?」
野恵の顔にどことなく引っかかる笑顔が浮かぶ。つられて恵美も笑い、私もそれに合わせて笑顔になる。
「なんというか、見た目通りって感じだったよ。薄幸な感じ。」
クラスの隅にいる黒瀬さんの顔を見ながら、一昨日のことを思い出す。完全に私たちのお遊び感覚で始まった家庭教師と生徒の関係は、あの日を見ればそれなりの形にはなったと思う。これが続くかどうかは私にもわからないけれど。
「一昨日って雪梅の家に行ったの?それとも図書館とか?」
恵美の素朴な問いに私は言葉を詰まらせた。本当のことを言えば根掘り葉掘り聞かれるのは承知なので、適当にごまかすために、記憶を捏造する。
「最初は私の家の予定だったんだけど、結局は図書館になったんだよね。まあ、私の家はあんまり他人上げるのも嫌だしさ。」
私がそこで話を区切ると、そこから話題はまた別の方向に移っていった。野恵が好きな俳優の出ているテレビドラマで、あまり好きではない女優との交際が始まったとか、新しいコスメのメーカーの商品が日本にやってきたのにこの地方では販売していないとか。それなりに相槌を打っておけば勝手に話に山ができて谷ができて着地してくれる話題ばかり。話半分に、そういえば今月の雑誌はまだ見ていなかったなぁと思いだした。
休み時間ぎりぎりまでひとしきり話した後、先生が教室に入ってきてから自分たちの席に戻る。まあ、野恵の周りにいればどうせ先生に怒られることもないし、こういう時には彼女と友達になっておいてよかった。
授業が始まると野恵も恵美もさすがに話しかけてこなくなるから少し安心する。一緒にいる時間は嫌いではないけれど、ずっと一緒にいると体力を吸い取られるような二人だから、授業時間は私にとっての休憩時間になっている。前の席の野恵は相変わらず先生に雑談をしようとしてあきれられ、斜め前の恵美は気が付くと机と体が水平になっている。そういうところは巻き込まれないように、一応真面目のふりだけはしている。
先生が野恵の雑談を振り切れずにさっきも話していたテレビドラマの話が始まると、私の頭の中にふと黒瀬さんのことが浮かんだ。いつも教室の隅っこで本を読んでいる、けれども図書委員をやっているような丸い感じではなくて、むしろ一匹狼に近い印象がある。どこをどう切り取っても校則違反には絶対にならない、黒髪のボブにマネキンが着ていそうな制服、足にフィットする白い靴下をはいている。それでも、確か二年生になってすぐくらいに上履きのかかとがつぶれているとかで先生に怒られているのを見たのが、初めて黒瀬さんを知った出来事だった。
そこから考えは雲のように流れていって、弟と妹のことから気が付けば今晩のご飯の献立を何にしようかという、いつものものになっていた。まだシチューを作るには少し早い季節だし、冷蔵庫にあるのは鶏肉くらいだからなあなんて考えていたら、いつの間にか時計が半分ほど進んでいる。先生が黒板を消す前に何とか板書を取り終えると、一応授業の内容を教科書で追いかける。
残りの授業はまじめに受けて、帰りのホームルームが終わり野恵と恵美を部活に送り出すといつもの癖でスマホを確認する。普段なら何もないことに安心するけれど、画面には一件のメッセージの着信があった。しかもそこに表示されているアイコンには見覚えがなかった。不審に思いながら開いてみると、黒瀬さんからで
「私がいいって言うまで教室を出ないで」
と送られていた。そういえば今日は2回目の家庭教師の日だったなと思い出した。それから、次の黒瀬さんからの連絡が来るまで何をして時間をつぶそうかなと、教室に残っている人たちの近くに行っては少し話に混ぜてもらった。部活がある人はすでに移動してしまっているので、残っているのは文化部か帰宅部の人たちしかいない。そのせいか、男子も女子もみんな真面目で、会話のどこかしらには受験の話が出てくる。そのたびに私は別のグループのもとに歩を進めるのだった。
隣の教室に残っている人たちと話しているころに黒瀬さんから再び連絡があったので、私はその場で彼らに別れを告げて黒瀬さんの家に向かった。私の家がある方面からは少し遠い、店舗の倍以上ある駐車場を持つスーパーが並ぶ通りを抜けた先にあるファミリー向けマンションの一角。お金以外の理由で戸建てを構えられない人たちが住むような場所だということを、駐車場に止まっている車のエンブレムが物語っている。
周りに似たようなマンションがないことを確認してから、恐る恐る敷地に踏み入った。この時間帯ということもあり、子連れのお母さんがスーパーの袋を片手に帰宅する中、私は一人で玄関に向かった。オートロックの前について、黒瀬さんに部屋番号をメッセージで聞くと、一分と経たずに返信がきた。キーパッドにその番号を打ち込む。
「もしもし、広岡だけど。」
私が話し終わるよりも早く、スピーカーがオンになることもないままにドアが開いた。一言くらい返事してくれてもいいのにと思いながら、エレベーターで指示された階まで上がった。マンション内部はホテル式で廊下が室内になっているから雨の日でも濡れることもなければ、風にあおられてドアが開かないなんてこともないんだろう。
前回来た時に覚えた部屋のドアの前に立ち、インターホンを押す前に深呼吸する。他人の家だからというのもあるけれど、この家に入るのはいろんな意味で少し緊張する。それでも意を決してボタンを押そうとするよりも先に、鍵が開く音と同時に扉が開いた。
「来てるんなら早く入りなよ。」
少し不機嫌な黒瀬さんが扉からひょっこり顔を出した。それと同時に独特な部屋のにおいが私の鼻を刺した。顔をしかめそうになるのを我慢して、すぐに部屋の中に姿を消した黒瀬さんの後を追う。
「失礼します。」
部屋に使われている板材、使っている洗剤、食品、様々な匂いが織りなすこの部屋のにおいは私の知っているそれとは全然違う。甘さも華やかさもない、よく言えば地に足が付いた生活を感じさせるものだった。それは案内された黒瀬さんの部屋もほとんど変わらない。私がちゃぶ台の前に腰を下ろしてから室内を見回していると、相変わらずそっけない声がした。
「そんなに私の部屋見て楽しい?」
「他人の部屋だから面白いよ。」
面白いの一言では表現しきれないものがこの部屋にはある気がする。ベッドの隣には部屋の高さ目いっぱいに本が収納されている引き戸式の本棚、勉強机の上には真ん中にCDを入れる場所があって両端にスピーカーが付いている形式のオーディオ機器がある。けれども、普通の部屋にありそうなアイドルの写真や雑誌も、姿見もクローゼットすら見当たらない。ベッドは無地のシーツで、布団は赤やピンクと対になりそうな青の花柄だった。およそ私が知っている女子の部屋とはかけ離れている。
それなのに、ベッドの上にはカワウソの抱き枕らしきものが枕に顎を乗せている。私に横顔を見せているカワウソは半眼だけ開けた状態で、完全に目を閉じているよりも見ているだけで眠気を誘ってくる。あの子を抱きながら黒瀬さんが寝ている姿よりも、あの子に布団をかけたまま勉強机に向かう黒瀬さんのほうが想像にたやすい。こんな部屋だったら、誰でも見回してしまうと思う。
「まじめにやらないんだったら教えないけど。」
そう言う黒瀬さんはすでに問題集を開いていた。ごめんと一言謝ってから私も提出期限の迫っている数学の課題を取り出した。
「今日はこの課題やろうと思うんだけど、私馬鹿だからよくわかんなくてさ。黒瀬さんはもうやった?」
「終わってるけど、手伝う。」
さっきよりも声は一層不機嫌だけど、手伝ってくれるあたり優しい。まあ、こんなことを言ったら余計に機嫌を悪くしそうだけど。
数学は嫌いな科目だ。わからないものはとことんわからないし、急に別の分野が顔を出してくるから、頭がこんがらがる。普段なら無理って投げ出しちゃうような課題でも、黒瀬さんが教えてくれているし、何とか解けるようになる気がしてくるのが不思議だ。
課題が半分ほど終わって、少し手を休めている時に問題集とにらめっこしている黒瀬さんに話しかけた。
「ねぇ、黒瀬さん。少し聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「別にいいけど、答えるかは知らない。」
顔を上げないままそう答えるから、私は気になってたことを聞いてみた。
「その勉強机の上のスピーカーみたいなものは、黒瀬さんのなの?」
問題文を追いかけていた目の動きが止まると、急に顔を上げて私の瞳を見透かした。
「……お父さんのだよ。」
それ以上私に質問させないという意思を視線から感じて、それ以上は聞かずに課題の相手をした。黒瀬さんにお父さんがいること、ほとんどの人にとっては当然のことのはずだけど、それがすごく意外なものに感じた。この部屋を見ていると、普通じゃないことのほうが普通で、普通なことが普通ではなく感じてしまうのはなんでだろう。でも、これ以上考えても答えは出ないはずだから、私はさっきの会話ごと思考の外に追い出した。
課題の残り半分は思ったよりも早く終わらせることができた。前半に黒瀬さんに教えてもらった内容が多かったのもあって、黒瀬さんに聞く回数もさっきよりも少なかったと思う。それに、あの話の後に黒瀬さんに質問するのがはばかられたというのもあると思うけど。
「この課題が終わったから、今日の家庭教師は終わりでいい?」
「それは私が決めることじゃない。」
黒瀬さんは読んでいた参考書から顔を上げて、私のことをじっと見ながら答えた。もっと勉強したほうがいいという意味だろうか、それともとっとと帰ってほしいという意味なのか、私にはわからない。だから私は結局この言葉を選んだ。
「じゃあ今日のお願いを決めてよ。何でもするからさ。」
黒瀬さんのさっきまでの無表情から明らかに表情が曇った。まあ、私が彼女にとって必要とされていないことくらいはわかっている。それでも、勉強を教えてもらって、何も返さないというほうが私の気が引ける。数分の沈黙の末に出てきたのは、意外なお願いだった。
「じゃあ、そこのコンポつけて。後ろの本棚のCD適当にかけて。」
後半の言葉で何となくその意味を察すると、勉強机の上に鎮座するオーディオ機器と対面した。こういうものはきっとピンキリだろうから、素人目には値段はわからないけど、きっと高いんだと思う。それでも、電源ボタンはわかりやすい位置にあった。そんな機材を使って聞いている曲がどんなものかと、少し期待しながら本棚に近寄ると、テレビのゴールデンタイムの歌謡番組で流れるような曲のCDが一面に並んでいる棚があった。もっとベートーヴェンとかドヴォルザークが出てくるかと思ってたから少し拍子抜けだった。その中で、私も聞いたことがある女性歌手のCDを選んでコンポと言われた機械を適当にいじると控えめな音量で音楽が流れ始めた。
「これでいい?」
黒瀬さんのほうを振り返ったけど、小さく頭を揺らして音楽に乗っていた。この後はもう帰るべきかな、なんて思っていると黒瀬さんの声がふいに鼓膜を揺らした。
「座りなよ。まだ勉強するから。」
「私もう課題終わったんだけど。」
いいからそこにいてという彼女に言われるがままに、さっきまでいた位置に戻った。もう課題は終わってるし、楽しそうに勉強しているところに話しかけるのも良くないかなと思っていたけれど、黒瀬さんの方から話しかけられた。
「広岡さんって音楽聴くの?」
唐突でそっけない質問だったから、咄嗟に言葉だけが口から飛び出た。 「聞くよ、K-POPとかならね。」
どうやらそれは黒瀬さんにとっては面白くないものだったようで、眉間にシワが1つ刻まれることになった。結局さっきまでとあまり変わらない沈黙を、ポップソングが甘ったるくしていた。沈黙は私の苦手とすることで、特に自分のすることがない沈黙はどうもむずむずする。余計なことかもしれないと思いながらも、私は黒瀬さんに質問した。
「黒瀬さんはどんな音楽を聴くの?」
相変わらずうつむいたままの姿勢だったけれど、黒瀬さんはさっきよりも柔らかい口調で答えた。
「今流れてるようなの。」
私が今の曲の歌手の名前を出すと、黒瀬さんは知らないと答えた。自分で聞いている曲と言いながら、その歌手も知らないのはどういうことなんだろう。普通、歌手の名前からほかの曲を調べたりすると思うのに、そういうことはしないのだろうか。彼女の知らないという言葉以上に、私には彼女のことがわからなかった。
結局そのあとはほぼ無言のまま時間だけが流れて、そのCDの曲が全部終わると私に帰っていいと言った。意外にも帰る前に時間のことを心配してくれたのはよく覚えている。それと、黒瀬さんは音楽は好きらしいということはわかった。仲良くとまではいかずとも、もう少しだけ彼女のことを知りたいような気がする。