第3話

 広岡さんの家庭教師が始まった次の日も学校はそう変わらなかった。朝、登校した時に畠さんに少し絡まれた程度で、それ以外の厄介ごとは起こらなかった。おかげで、参考書の昨日広岡さんに音読させた部分を読み直す時間も取れた。

 普段は窓の外に向かう視線が、今日は自然と広岡さんの背中に向かう。前から2番目の席で畠さんの後ろに座る彼女は窓際の席からでもよく見える。教室ではブレザーを羽織る生徒も増えてきたけれど、広岡さんはブラウスにカーディガンを重ねていた。いつ見ても染めたてのようなダークブラウンの髪は背もたれにかからないところで止まっている。

 広岡さんは私が見ている限り、背筋を伸ばして授業を聞き、板書をしっかりとるような生徒だ。私みたいに教科書を忘れて、別の本を開いて先生にばれないようにごまかすようなことや、畠さんのように他人の課題を写して済ませるようなことをするようには見えない。そんな彼女が昨日見せられたような点数を取るところは、私からすると想像もつかなかった。

 窓の外の雁の鳴き声と同じくらいの価値しかない先生の話を聞き流していると昼休みを告げるチャイムが鳴った。スクールバッグから登校中に買った菓子パンの入った袋を取り出して食べようとしたとき、急に私の視界が温かい何かでふさがれた。

「だ~れだ?」

「……さや。」

 つまんないなぁという声とともに、私の視界が戻ってくる。背後から現れたのは一ノ瀬紗香、私の中学のころからの友達だ。私の前の席の椅子を後ろ向きに変えると、私の机にお弁当袋を置いて顔を覗き込んできた。

「聞いたよ?広岡さんに勉強教えてるんだって?」

 その言葉に、私は思わずため息をこぼした。そんな私を置いて、さやはお弁当箱を開けながら続きを話す。

「まさかあやが|他人《ひと》に勉強を教えるなんてね。」

「それ、誰から聞いたの?」

「うちのクラスの男子が畠さんから聞いたって言ってたよ。」

 こういうことになるからやりたくなかった、と頭で考えても今更なのはわかっている。だから私は目の前のさやに昨日の話をした。

「本当に教えることになるなんて思ってなかったんだけど。」

「まあ、広岡さんって義理堅いというか、一度言ったことはやりそうな感じがあるよね。」

 確かにその通りかもしれない。畠さんや綾辻さんと違って、その辺はしっかりとしているように見える。

「そういえば、さやは今回のテストどうだったの?」

 お弁当の具をつまんでいたさやの顔から急に笑顔が消えた。

「今回あんまりよくなかったんだよね。そのせいで親に予備校を増やせって言われててさ。」

「文系のほうのテストは難しかったの?」

「いや、逆じゃないかな。多分簡単だったせいであんまり差がつかなかった感じ。」

 さやはこの学校では頭がいいほうに分類される生徒だと思うけど、上京という目標のために難しい大学を志望している。そのため、普通の成績では親は満足してくれないらしい。

「私もあやに教えてもらいたいなぁ。」

「別に私、人に教えるの得意じゃないんだけど。」

 昨日のことを思い出すと、自然と菓子パンをかじる口が止まる。確かに広岡さんに比べれば勉強が得意かもしれないけれど、教えることに関しては別問題だと思う。

「私はあんまり話したことないんだけど、広岡さんってどんな人なの?いつも畠さんと一緒にいるっていうイメージはあるんだけど。」

「自分勝手な人だよ。」

 念のため、よく知らないけれどと付け加えておいた。でも間違ってはいないはずだ。

 気が付けばさやのお弁当箱には唐揚げが1つ残っているだけになっていた。それを箸の持ちて側でつまむと、開きっぱなしになっていた私の口に押し込まれた。むがむがと必死に彼女に反抗するも、唐揚げは収まるべくして収まった。あまじょっぱい味付けが揚げ物の脂っこさを中和して食欲をより一層引き立てる。噛めば噛むほど甘く、ご飯があったら一緒に食べたいと思わせる味だった。さやは私を見ながら、どこか母性を漂わせる顔つきをした。

「菓子パンばっかりじゃなくて、たんぱく質も摂らないと背が伸びないよ?」

 私が唐揚げを食べ終えると、フリスビーを取ってきた犬でも可愛いがるかのように私の頭をなでてくる。頭をなでられて悪い気はしないけれど、同い年にされるとちょっと腹に据えかねるものがあった。   「ねえ、髪がぼさぼさになるんだけど。」

 もう少しだけ、と言って私の頭をひとしきり撫でるとさやは教室を後にした。相変わらず元気だなとさやの背中を見ていると、自然と口元がほころんだ。さやのいる文系棟から私のいる理系棟の間には一年生の教室があり、移動にはそれなりの時間が必要になる。それでもほぼ毎日この教室に顔を出すさやは優しいんだと思う。それに比べて、広岡さんはと思ったとき、教室の隅で広岡さんの姿が目に入った。

 いつものように畠さんと綾辻さんと何かを話している。教室の対角にいるはずなのに、少し聞き耳を立てれば単語は耳に入ってくるけれど、私には何の話かよくわからない。代わりに広岡さんの表情を見ると、いつものように笑顔があった。いつ見ても変わらない笑顔、でもその奥の感情は私には見て取れなかった。

 

updatedupdated2026-03-152026-03-15