第2話

 そこからどんな風に家まで歩いたか自分でも記憶があまりない。普段と同じ帰り道を歩いていたはずだけど、周りの人の視線が気になってとにかく少しでも早く家につきたかった。マンションの前でオートロックを前にしてスクールバッグに手を入れたとき、広岡さんの荒い呼吸が背中に伝わってきた。

「黒瀬さん、歩くの早すぎるよ。道知らないんだからもう少しゆっくり歩いて。」

「もう着いたから。」

 二人でエレベーターに乗って私の部屋の階まで上がる。密室に入って広岡さんの髪から漂う甘いシャンプーの香りを知った。ふんわりと漂うだけだけど、それだけでも私と別の世界を生きている人だなと再認識させられる。

 「じゃあ、とりあえずこっちの部屋に入って。向こうの部屋に入ったら追い出すから。」

 そういって広岡さんを私の寝室に通した。「追い出すってひどくない?」と文句を言いながらも、私の部屋に入ると、広岡さんは立ったまま荷物を床に下ろした。

「急に押し掛けた私も悪いんだけど、どうやって教えるの?」

 広岡さんの言う通り、この部屋には机も椅子も1つずつしかない。仕方なく彼女に待っているように言って、広岡さんに立ち入りを禁止したリビングからちゃぶ台を持ってきた。

「これで勉強できる。というか、本当に家庭教師やるの?」

 いまだに彼女の言葉に半信半疑だったが、どうやら広岡さんは本気のようだった。

「私馬鹿だからさ。このままだと本当に赤点取りそうなんだよね。だから教えてくれたらうれしいな。」

 自嘲する彼女の顔は、さっき畠さんに背中をたたかれていた時と同じ笑顔で思わず顔をしかめそうになる。広岡さんに今の勉強の状態を知るために今回のテスト結果を見せてもらうと、それは惨憺たる様子だった。ほとんどの欄が空白の答案用紙はシャーペンの文字よりも採点のチェックのほうが多く、右上に書かれている数字は私のそれの半分程度だった。

 授業中でさえ先生含めクラスの視線を集める畠さんの近くにいて、当てられることも多い印象だったからか、勉強が苦手というイメージはなかった。

「言った通り、ひどい点数でしょ?赤点取ったら野恵たちと遊びに行けないから、それだけは何としても回避したいんだよね。」

「それぐらいなら教えられると思うけど、本当にやるんだよね?」

 念を込めもう一度確認したけど、答えに変わりはなかった。それから広岡さんの提案で家庭教師のルールについて決めることになった。当分の間は週2回、夜遅くなる前には終わらせることが広岡さんの提案だった。

「あと、学校ではあんまり話しかけないで。帰るときも別々で帰るから。」

 私の学校での安寧を守るためのルールを文句を言いながらも広岡さんは呑んでくれた。そこまで譲歩されたら、やるしかないという気持ちが湧いてきた。

「あと家庭教師の報酬って何か欲しいものある?欲しいものとかあれば買うけど。」

「別にいらない。」

「教えてもらうんだから、何か返させてよ。」

「いらないから。」

 どれだけ私が否定しても広岡さんは食い下がってくる。挙句の果てにこんなことまで言い出す始末だ。

「そしたら、家庭教師1回ごとに黒瀬さんのお願いなんでも1つ聞くよ。できる範囲内ならね。」

「そんな権利いらないんだけど。」

「黒瀬さんが使わなくても勝手にためてくから。」

 広岡さんは自分勝手すぎる。自己完結していて、いくら私が文句言っても取り下げてくれないということが分かっているから、私もそれ以上何かを言うのはあきらめた。どうせこの関係もいつかは終わるし、それまで権利なんて放っておけばいいだけだ。押し殺そうと思っていたためいきが口の端からこぼれた。

「それで、今日はとりあえずテストの復習でもする?その点数なら復習するところたくさんありそうだし。」

 私はもう家庭教師をやるために腹をくくったのに、なぜか広岡さんのほうが普段の笑顔を崩していた。   「えっと、今日はまだいいんじゃない?テスト終わったばっかりだし。」

「今日はこの後予定ないんでしょ?だったらだめ。」

 そっちからお願いしてきたのに、と思いながら私が語気を強めると、観念したように広岡さんはカバンに手を突っ込んだ。そして、急に顔を曇らせた。

「テスト問題、学校に置いてきちゃった。」

 やっぱり家庭教師なんてやめたほうがいいんじゃないだろうか、と今更ながらに思う。それでも、約束は果たさなくてはいけないと思うから、私のカバンから問題用紙を出して前に置いた。

「これ貸してあげるから、間違えた問題を今解いてみて。それでわからない問題があったら教えるから。」

 そういって押し付けると、意外と素直に広岡さんは問題用紙をめくった。私も自分の勉強をしなくてはと思ったけど、正面に見慣れない人がいる中で集中するのは難しい。問題用紙とノートを開いたはいいものの、視界の端に映る広岡さんの長い髪に意識が向かってしまう。必死に参考書の文字を追いかけて、ようやく内容が頭に入り始めたタイミングで広岡さんの声がした。

 「ねぇ、ここわかんないんだけど、教えてくれる?」

 感情を表情に出さないように気を配りながら広岡さんの指さしている問題を解説した。

 結局それから二時間近くかけて、何とか一科目だけは教えきることができた。自分の勉強が軌道に乗り始めようとしたときに、広岡さんから質問が来るから私の勉強は進まず、彼女が開放感に満ちた表情で休んでいるのを前にして参考書を読み進めることになってしまった。時々彼女が何をしているのかを見るけれど、別に勉強をするわけでもなく、帰り支度をするわけでもなく、私の部屋を眺めていた。

「そんなに人の部屋の家具を見つめて楽しい?」

 参考書から顔を上げることなく聞いてみた。すると、今日何回も見た笑顔で広岡さんが答えた。   「楽しいよ。自分の家にはないものがいろいろあるからね。」

 そんなに私の部屋には何かあっただろうか。思い当たるものがないけれど、それ以上は口を開かなかった。適当なところで勉強を打ち切ると、今更ながらリビングからジュースを注いだカップを2つ持ってきた。

「もうだいぶ遅いし、これ飲んだら今日は帰って。」

 広岡さんにジュースを差し出すと、一言感謝を言ってから受け取った。   「まだ私何のお願いもされてないんだけど。」

 そういえばそんな話もあったんだっけ。クラスメイトというだけで、これまでそれ以上の付き合いのなかった人にするようなお願いなんて持ち合わせていない。それでも、何かしらお願いしない限り、この部屋から帰ってくれることはなさそうだったから、私は部屋を見渡してみる。そこで、ふと思いついた当たり障りのない頼みごとをしてみる。

「じゃあ、この参考書のここからここまで音読して。コラムも含めて。」

 読みかけのままになっていた参考書を手渡すと、広岡さんは私の隣に座って音読を始めた。広岡さんの声は柔らかくて抑揚や表現力も豊かで、聞きながら文字を追っていたはずがいつの間にか瞼が重くなる。

「黒瀬さん?読み終わったけど、これでいいの?」

 広岡さんの声ではっと目を覚ましたけど、そんなそぶりは見せないように彼女に言う。

「うん。そしたらもう今日は帰っていいから。」

 それから、何回か広岡さんに感謝を言われつつ、彼女をオートロックのところまで見送った。やっぱり広岡さんはどこか自嘲的な笑いを顔に貼り付けたまま、夕闇の中に去っていった。

 自分の部屋に戻ると時計を確認して、広岡さんがこの部屋にいた時間が頭の中で勝手に計算される。慣れない人でも誰かと一緒にいる時間は過ぎるのが早いらしい。それにしても、

「本当に広岡さんは自分勝手すぎる。」

 誰もいない部屋にそう愚痴をこぼすと、カップラーメンを作るためのお湯を電気ケトルで沸かした。

updatedupdated2026-03-152026-03-15