第一話

 暑いとうるさい男子たちが開けた窓から秋風が頬を撫でた。夏が終わって、水道水がぬるくなくなり、風が涼しさを覚え、宵闇が首元を不安にさせる季節が音もなく訪れた。

 高校二年生の秋、文化祭と修学旅行も終わり、ついこの間までは中間試験でそわそわしていたクラスメイトが、テスト返却の結果で炭酸飲料を開けた瞬間のように騒がしい。赤点を回避したとか、平均点に届いたとか、そんなにはしゃぐようなことでもないと思う。それだけのエネルギーがあるなら、もっと他に使えばいいのに、なんて思ってしまう。

 答案用紙を机の中にしまうと、読みかけだった本を取り出してページを開いた。少しすると喧騒が聞こえなくなるくらいには本に集中することができた。犯人もトリックさえも覚えるほどに読んだ小説だからこそ、不安を抱かずにページがめくれる。そのせいで、いつの間にか机を挟んで向かい側に三人も私のことを見ていることに気が付かなかった。

「あ、やっと気が付いた。ほんと、黒瀬さんって本読んでると周りが見えなくなるよねぇ。」

 よく言えば判別のしやすい、ざらついた声が私の鼓膜をなでる。畠野恵さん、いつでもクラスの中心にいて、それを当然のようにしている人だ。

「ねぇ、ちょっとテスト結果見せてよ。どうせ見られても恥ずかしくない点数でしょ?」

 ため息をつきたくなるのをこらえて、机にしまった再生紙を引っ張り出した。私が何かを言う前にそれをひったくると、私の机から少し離れて三人で凝視しだした。確かに今回はいつも以上に出来が良かったけれど、それと見られて恥ずかしいと感じるかどうかは別だと思う。まあ、そんなことを言おうものなら、より大きな声であの耳障りな声を聴かされることになるだけでは済まされない。

 私の回答を見ているのは畠さんと綾辻さんと広岡さんだ。三人とも薄明かりのもとでもわかるくらいの茶髪をしていて、結わえることもしないで後ろに流している。広岡さんはブラウスの上にブレザーではなくパーカーを着ている。対照的に綾辻さんと畠さんはブラウスのボタンを2つほど開けていた。ひとしきり話したらしい三人が私の前に戻ってくるなり、畠さんが私に告げた。

「黒瀬さんさぁ、部活にも入ってないし放課後暇でしょ?雪梅の家庭教師やってよ。」

 私の思考が追い付かないうちに、綾辻さんが重ねるように言った。

「雪梅がいい点数とらないと私たちと遊べなくなって困るの。優雅に本読む時間があるなら、手伝ってよ。」

 まだ私が固まっていると、黒瀬さんが広岡さんの背中を叩いた。嘲笑の混じる二人とは違って、少し申し訳なさを感じさせる表情の広岡さんが口を開いた。

「できたら私に勉強教えてくれないかな。少しでもいいからさ。」

 その言葉に考えが追い付くより先に言葉が口から出ていた。

「別にいいけど。」

 最初に反応したのはやっぱり畠さんだった。「ほら、頼めば何とかなるって」なんて言いながら広岡さんの背中を叩きまくっていた。綾辻さんもそれに混じって「これでまた遊びに行けるじゃん」とすでに私のことなど眼中にはないようだった。

 実際に家庭教師をやらされるなんてことはないと思うけど。去っていく三人の背中を見ながらそう思った。どうせ、親か誰かに遊びに行くための言い訳づくりに利用するだけだ。だから、その数分後に広岡さんから連絡がきたときにはびっくりした。しかも連絡先を交換していないはずなのに、わざわざ私の連絡先を知っている人を探したらしい。

「家庭教師の話、黒瀬さんの家で教えてもらうのでもいい?私の家、兄弟がいてうるさいからさ。」

 きっと広岡さんは神経が太い人なんだろう。間違えて改札待ちの列に割り込んでも知らん顔してそうなくらいには。ただ、よく知らない他人の家に上がってその家族とも話すよりかは、自分の部屋で教師のまねごとをしたほうが気持ち的にはいくぶんか楽になる。それに、やると言ってしまった手前、仕方なく彼女の提案を聞き入れた。

 残りのテスト返却は変わり映えしない点数ばかりで、放課後のことに気持ちが引っ張られた。ホームルームの時間になっても、私はクラスの前のほうの席に座っている広岡さんの背中を見つめていた。

 自由時間を告げるチャイムとともに多くの生徒が教室を飛び出していったが、広岡さんは席から動こうとしなかった。教室を後にする綾辻さんや畠さんと少し会話をしただけで、席から立ち上がる様子もない。そうなると、私も帰りの支度が終わっていても身動きが取れず、視界の端に広岡さんをとらえたまま中断していた読書を再開した。

 探偵が登場人物を集めて事件についての振り返りを始めようとしたころ、私の視界が大きく変化した。さっきまで見えていたはずの黒板が消えて、その代わりに広岡さんの顔があった。

「黒瀬さん、家庭教師の件なんだけど、今から行ってもいい?」

「いいけど。」

 仕方なく、読んでいた本をスクールバッグにしまうと教室を出た。普段の癖で扉を閉めようとしたときに、抵抗を感じて振り返ると広岡さんがいた。

「広岡さん、なんでついてくるの?」

「だって黒瀬さんの家知らないんだから。」

「もう少し後ろを歩いてよ。」

「そしたら私がストーカーみたいじゃん。」

 私の言うことも聞かずに、私の半歩後ろをついてくる。広岡さんの隣を歩いているところをほかの人に見られたら、と思うと気が気でない。でも、文句を言っても仕方ないんだろうということは自覚しているから、ため息をついて歩を速めた。

updatedupdated2026-03-202026-03-20