絶望の底に叩き落されて

 今何時なんだろうか ふと気になって腕につけていた時計を見ると、もう新しい日を迎えようとしていた。それまで、ずっと彼方の手を握っていたのか。

なかなか長い時間だった。まあ、たまにお茶を飲んだり、軽食を取ったりはしていたけど。それでも、一人のことをこれ程長い時間の間考え続けるというのは、容易いことではない。

 僕はもう一度彼方の手を強く握る。もう一度だけでも、話をしたいと願いながら。一言伝えたいこと、相談したいことがあるんだ。

 その時、わずかに感じたぬくもりで、気が緩んだ。前を見ると、暁さんは少し眠たそうにしていた。その頃、ちょうど太陽が地平線から顔を出そうとしていた。

 ほんのわずかだった。彼方の手が僕の手をつかんだ。本当にわずかではあったけど、まだ彼方が生きている証拠だった。僕も必死に彼方の手を掴み返した。まるで雪で作ったうさぎを抱えるように。前を向くと、暁さんも少しほっとした様子で、目をつむっていた。僕は何とか寝まいと心掛けていた。

 掴まれた手を、つかみ返そうとしたとき、彼方の手が僕の手から零れ落ちた。

 はっとした。

 もう一度つかみなおした彼方の手は、生き物の温みの無い冷えきった手をしていた。まさか、と思ってバイタルを覗くと、起伏のあった折れ線が、今では残酷なほどに直線になっていた。心拍とともに放たれていた電子音が、永遠に流れ続ける。

「彼方、帰ってきて」

 もう一度、彼方の手にぬくもりを取り戻そうとして、硬くつかみなおした。けど、その手には、もうぬくもりが帰ってくることはなかった。残されたのは、生の宿っていた抜け殻だった。

「残念ですが」

 と言う先生の声が聞こえた。そういえばと思って、暁さんの方を見ると、彼方の手に美しいしずくが流れていた。

「暁さん…」

 僕は、彼女にそれ以上の言葉をかけられなかった。どうにかして、暁さんを励まさなきゃ、という思いが募り始めた。けど、その思いは言葉にはならなかった。結局、ただ暁さんのことを見続けることしかできなかった。

 もう、僕の心は、彼方に対する喪失感よりも、暁さんの心に対する無力感の方が大きくなっていた。何とかして立ち上がって、暁さんの隣まで行って、暁さんの肩に手を置いた。少しでも、暁さんの力になってあげられたらと思った。

 片方の手を暁さんの肩の上に置き、もう片方の手を暁さんの手に重ねた。暁さんの肩をさすりながら、手を温めた。

 なぜか、背中に温かい視線を感じた。本当に、優しい人だ。

 それから、日が完全に出てくるぐらいまで、暁さんを慰めていた。無言のまま、ただ暁さんの背中をさすり、姉妹の重なった手を温めた。日が朝を知らせたころ、暁さんが立ち上がった。くるりと回って、先生の方を向いて

「ありがとうございました」

 と、言ったのに合わせて、僕も頭を垂れた。先生は、太陽のようなぬくもりのある表情で

「私は見守っていただけです。称えるなら、彼方君の方です。最後まで頑張ったんですから」

 と言って、彼方の方に視線を飛ばした。

「私は彼女にほとんど手出ししませんでした。少しの点滴を打ったり、薬を出すぐらいでした。ここまで生きてこられたのは、あの子の頑張りがあってこそです」

 そういって、先生は彼方を、まるで自分の子供をほめるような手つきで、頭をなでた。暁さんもその光景を見て、彼方のことをなではじめた。僕は、二人の様子を少し上から眺めていた。それから、またしばらくの間、先生と暁さんで彼方を撫で続けていた。

 その間、僕は虚無感にとらわれ続けた。二人に対して、特に暁さんに何もできない自分の無力さ。彼方を、大切な「家族」を失ったことで、心にできた虚空。その二つに苛まれていた。さっきまで暗雲に満ちていた病室には、息を吸えない真空が広がっていく。

 そして、もう一つ僕は自分が怖くなっていた。それは、大切な家族を失ったのに、一切涙が出なかった。いや、そもそもとして、悲しさがわいてこなかったのだ。ただ心を抉り取られたように空いた穴があるのみだった。もしかしたら、その地点には雨が降っていたのかもしれない。でも、その雨は地面にぶつかることなく、ただ流れていった。

 しばらくして、先生が不意に立ち上がった。そして、僕と暁さんを病室の外に連れ出した。僕らは無言のまま先生についていった。何度も暁さんに声をかけようとしたけど、恐怖や悲しみに似た形質の壁に遮られた。気がつけば病院の最端にある、この先生専用の部屋まで導かれていた。

「じゃあ、この部屋に入って」

 先生が扉を開け放ち、僕らを先に部屋に入れた。

「失礼します」

 二人同時に言って、部屋の中に入ると、先生も扉を閉めて部屋に入ってきた。その部屋は、よくテレビなどで研究者が話をしているような部屋だった。先生は、部屋の奥の自分用のいすに座って、僕らに客用と思われる椅子に座るように促した。そして、先生は引き出しから、いろんな書類を取り出した。

 それは、僕がある種のトラウマにさえなりかけている書類たちだった。それを見たのは、つい半年ほど前のことだった。その書類は、人がこの世からいなくなったことを記すもの。

 死亡診断書

 そして、先生は僕らに見えるように、そこに彼方の名前を書き込んだ。そのあとは、暁さんや僕と確認しながら、住所などの細かい情報を書き込んだ。診断書が完成すると、先生は立ち上がって、暁さんの肩に手を置いて

「つらいと思うけど、今は一人じゃないからさ。隣に蓮がいるんだから。もうちょっとだけ歩もう」

 と言って、先生は診断書を持ったまま扉の外に出た。暁さんは、もう動きたくない様子だったから、少しでも励ましたくて、暁さんの肩に手を置いた。

「僕が隣にいるから。いつでも支えてあげるから、乗り越えよう。今すぐじゃなくても、いつかさ。」

 泣き出しそうな暁さんを立たせて、部屋の外まで、肩を貸してあげた。なんとか部屋を出て、部屋の扉を閉じた。そこで、暁さんは僕の肩を外した。

 先生は、携帯電話で何やらメールを一通送ると、もう一度歩きだした。今度の行き先は、多分外だろう。脳内では、いつかの同じような光景を思い返していた。あのときは外で雪がちらついていたっけか。

 本当にこの先生は優しい先生だと思う。前に、僕の両親の時もそうだったけど、なれない手続きを代行してくれるのだ。市役所などへの報告だけならまだわかる。でも、その先の保険会社との交渉や、葬儀場の準備まで手伝ってくれるのだ。

 それは、先生曰く謝罪の一つらしい。自分の技量が足りないから自分が無駄にこだわったから。亡くしてしまった人の遺族へのせめてもの謝罪だと聞いた。確かに、彼方のことはそういう部分もあったかもしれない。けど、そこまでしてくれるのは、本当にありがたい。

 僕らのように、両親がいなかったり、両親が日本にいなかったりすると、子供には手に負えないことがたくさんできてしまう。特に、保険会社のようなところとの交渉だと、子供はすぐに騙されてしまうこともある。実際に、僕の両親のときも、保険会社側からうその説明をされたことがあるから、代理人までいかなくとも、手続きを見てくれる人がいると、とても安心できる。

 いつしかのことに思いをはせていて、周囲を見れていなかったと、ふと気が付いた。そして、焦ったように暁さんや先生を見たが、至って何ら変わらなかった。ただ、僕が急にきょろきょろしただけだった。

 それから、僕らは病院の外に出た。外は今にも雨が降りそうな、もしくは雨が降った後のような雲行きだった。外の風に吹かれると、暁さんも少しは元気そうになった。僕らの心に合う天気の中にいると、少しだけ心が落ち着く。

 そして、また僕は物思いに馳せた。その物思いに、意味がないことを僕は知っていた。それは、自分自身に対する恐怖だった。自分が人間なのかさえ理解できないほどに、人間らしい振る舞いができないから。

 人が  親しい人が  家族が死んだというのに、涙一つ流れなかった。  悲しみよりも、喪失感と虚無感の方が大きくなっていた。

 そんな、無価値な物思いは、梅雨の雲がかき消してしまう。無限にも広がりそうな、梅雨雲は僕の喪失感と虚無感を同時に埋めてしまった。それが、かなり姑息な手段であることは知っていた。

 それから、さほど経たずに、最初の目的地である市役所についた。先生が慣れた足取りで先へ先へと進むのに、何とかついていった。先生は市役所の役員と話し始めた。すぐに話が通ったらしく、奥の席につれていかれる。

 仕切りの間に長机があり、そこに向かい合うように僕たちと、役所の人が座った。役所の人による説明と、医者による役所の人への説明が始まった。僕と暁さんは、何とか話を理解しようと頑張ったけど、すべてはさすがに理解できなかった。

 意外にも、かなり早く役所とのやりとりは終わってしまった。なんだか、前の僕の両親の時より、早かった気がした。まあ、簡単な話だけに絞ってくれたんだと思う。それに、病気と事故だと対抗が変わってくるのかもしれない。

 そうして、僕たちは役所の人にあいさつして、次の場所に向かった。そこは、残忍さのたまり場ともいえる。ただひたすらに、人の命とお金を天秤にかけ続ける場所。保険会社だ。

 子供だけで行くと、たいてい騙されるから、大人がいると心強い。とはいっても、彼方が入っている保険は、かなり良心的なところだとは思う。なぜなら、あの彼方が入れた保険会社だからね。

 どんよりとした天気の中、大人一人と子供二人が保険会社に入っていった。大人は医者のような白衣を着ていて、子供たちはしわが多い制服に水玉模様をつけていた。

 保険会社に入ると、周囲では保険に関する質問とその回答を繰り返していた。そんな中、僕ら三人は、ちょっと隅にある、手続き申請所に向かった。そこは、さっきの役所に似た作りで、奥では常に人があわただしく作業をしている。

 そして、保険会社の人との話が始まった。真ん中に暁さんが座り、その左に先生が、右に僕が座った。そうして始まった保険会社との話は案外簡単に終わってしまった。まあ、そもそもとして、かなりいい保険会社の保険に加入しているという僕の予想は正しかったらしい。だから、相手方がこちらの気持ちを汲み取って話を進めてくれた。

 予想の半分ぐらいの時間で、保険会社を出ることになった。この時、僕は過去の自分の両親の時と比べて、意外にも簡単なんだなと感じた。人の命をお金にするということの、感嘆さを知らされた。

 そのあと、もう一度病院に向かい、彼方の顔をもう一度見た。暁さんも先生も、悲しみに包まれていた。けど、僕は、彼方の亡骸の横顔が、幸せそうに感じた。それは、自分の目標を達成したときの、喜びとかすかな優越感の入り混じるもの。そして、僅かに僕の心には彼方の声が聞こえるようだった。

 それから、僕らは家に帰って休むことになった。まあ、ほぼ夜通しで彼方の事を見ていたし、そのあとに手続き関連もほとんど済ませてしまった。だから、気が付かない間に疲れがたまっていると、医者が予想したことらしい。

 僕らは、彼方の病室を出る前に、

「ありがとうございました」

 と、その場にいる全員に告げた。先生は優しい笑みを浮かべて、手を振った。温かい医療従事者の仕草に、心を持ち上げられた気がした。僕は暁さんの肩に手を置いて言った。

「さあ、帰ろう」

 暁さんを支えるように告げて、病室を後にした。それから、僕らは自分たちの家に向かって歩き出した。

 この時、僕はいつもと違って、雨が降ればいいと思った。雨は嫌いだけど、雨が降ればお互いに傘を差し合う。そうすれば、この空気のギャップを埋められる気がしたんだ。けど、生憎と天使は雫を降らせてくれなかった。

 そうして、重い空気を引きずるようにして、家まで歩き続けた。その間、僕らはしゃべらなかった。いや、喋れなかったんだ。なにか、一言でも話しかけたかったけど、言葉にならなかった。けど、何とかして、重たい空気を家までは連れて帰らないようにした。

「ただいま」

 玄関の扉を開けると同時に、虚空に投げかける。そして、暁さんを置いて、僕はすぐさま手を洗った。それは、とあることをするためだった。いつも暁さんにしてもらっていたこと。今日だけは僕がするんだ。

 夕飯づくり

 あのぐったりとした様子の暁さんには、到底料理は作れないだろう。できたとしても、やけどなどをしてしまう気がする。だから、こういう時のために、簡単な料理は身につけておいた。まあ本当に簡単なものだけど、暁家直伝の生姜焼きを作ることにした。適当に調味料とかの準備をしていると、暁さんが

「あ、蓮ご飯作ってくれるんだ。今日はちょっと無理そうだったから助かったよ。ありがとう」

 いかにも精神的に辛そうに言ったので、僕はなるべく明るく

「まあ、僕にできることは少ないからね」

 と返してあげた。跡から思えば自虐的で、明るさのかけらもない言葉だけどね。そして、てきぱきと準備し、ごはんを並べた。僕も席に着き

「いただきます」

 二人で言って食べ始めた。けど、やっぱり食欲は起きなかった。食事がまともにのどを通らなかった。無理して食べる食事ほど、美味しく感じられないものはない。この生姜の香りも、醤油のしょっぱささえ、美味しさを欠いていると感じられた。

 箸で食べ物をつかみ、口元まで持ってきて、口の中に放り込む。そして、それをよく噛んだ後に飲み込むという、簡単な工程が、無限の時間の中で繰り返されている気分だった。けど、生姜焼きもご飯も無限にあるわけではないので、何とか二人とも食べきることができた。

「ご馳走様」

 と言って、僕は食器を片した。そして、暁さんに一言

「今日は早めに寝たほうがいいよ」

 とだけ伝えた。それから、食器を手早く片している間に、暁さんにはお風呂に入ってもらった。そして、片づけが終わると同時に、暁さんがお風呂から出てきた。僕もお風呂に入ろうと準備を始めると

「もう今日は寝るね。おやすみ、蓮」

 と言って、階段を上ろうとする暁さんに

「おやすみ。今日はゆっくり休んでね」

 と伝えて、僕はお風呂場に向かった。そして、いつものお風呂に入ったけど、なんだか全然リラックスできなかった。何というか、体が地面についていない感覚にとらわれた。だから、お風呂も手短に済ませて、とっとと寝ることにした。

 そして、いつものごとく、お風呂から上がって寝ようとすると、激痛に見舞われた。まあ、普通だったら、すでに入院してるはずの人間だから、こういうことは当たり前だ。それに、風呂に入るというのは血圧の上昇につながる危険な行為だから、禁止されているぐらいの行為だ。何とか鎮痛剤を胃に収め、少し椅子で休んでから、布団に入った。

 布団に入ると、いろんな事柄が頭をよぎった。今日と昨日に起きた、いろんな出来事が頭の中で駆け巡る。思考の入る余地さえないほどの、数多の記憶に沈み込む。そして、気が付いたら瞼が重く閉ざされていた。

updatedupdated2024-11-072024-11-07