次の日 いつもより悪い寝覚めで、日の光を正面から浴びた。時計を見れば、もういつもの起床時間だった。
「ふわぁ~」
やはり、降圧剤の量が増えたせいで、さらに朝に弱くなってしまった。低血圧にとっては、朝はつらいんだ。体に血が廻らない感じがする。鉛のように重い体を、無理に動かして下の階に降りる。すると、朝が得意な暁さんは、もう朝ごはんの準備をしていた。
「あ、蓮おはよー」
僕がリビングに入るのを感じ取ると、暁さんが僕に声を掛けた。僕は眠気のせいか、少し反応が遅れた。
「おはよう」
「ずいぶん眠そうだね。顔洗ってきなよ。」
と言って、暁さんは僕にタオルを渡した。それを持って洗面所に行き、顔を洗う。顔に細かい針が刺さるような、あの冷たさで頭は冷めた。まあ、足とか腕はまだ眠っているけど。
何とか、昨日悩みに悩んだ挙句、とにかくできることをやるしかないという結論に至った。まあ、迷ったり悩んでも、とにかく行動しようということだ。最適解はわからなくても、最善は尽くすんだ。
リビングに戻ると、トーストとハム、ミニトマトが並べられていた。暁さんは僕の分の配膳を終えると、席についた。
「ほら、早く食べちゃおう」
「うん」
と言って、僕も席に着いた。
「いただきます」
二人同時に食べ始めた。朝はそこまで時間がないので、二人ともしゃべらずに、急ぎながら食べている。少なくとも、昨日の沈黙よりかは雰囲気が良かった。食事も、昨日よりかはおいしく感じられた。
「ご馳走様」
できるだけ、暁さんに迷惑はかけないように、自分の食器は自分で片付けた。そして、歯を磨いて、制服に着替え始めた。その間に、暁さんも食べ終わり、二人同時に登校準備は完了した。そして、二人とも忘れ物の確認を済ませ、二人で扉を開けて
「行ってきます」
と、誰もいない家に告げて、学校に向かった。
登校中は、あまり話さないでいる。変な目で見られたくはないから。まあ、僕らが同棲していることとか、何故かクラス中に広まってはいたけど。同棲していることすらまだかすかな噂程度だったから、恋愛的な嫌味を持つ目で見られてはいない。
なんて、ごく一般的な高校生が考えてそうなことが思考を占拠していた。少なくとも、この一時間後までは。
二人の間のルール溶かしていた無言を貫きながら学校についた。そして、いつものように一時間目の準備をして、HRに臨んだ。まあ、臨むというほどのものでもないけど。昨日よりもゆったりとした思考をしながら、窓の外を眺めていた。
ぼーっとしていたら、すぐに一時間目が始まりそうになっていた。まあ、準備できているからいいかと思い、そのまま窓の外の雨一粒に視線を飛ばす。天で生み出されてから、十秒ぐらいで地面に落ちるのかな。ほんの僅かな時間と、その後の僅かな音を残して消える雨。
このままいつものように授業が進むはずだった。しかし、事は授業の半分が過ぎたころに起こった。
なにやら、教室の電話が鳴りだした。教卓に置かれている電話で、構内の教室同士を結んでいるだけの電話だ。最初は、授業をしていた先生も、鬱陶しそうに受話器を取ったが、話を聞いているうちに表情がこわばった。そして、暁さんと僕を見た後、
「暁さんと八雲は今すぐに彼方さんの元へ行きなさい」
と、告げた。その言葉を聞いた瞬間は、何が何やらわからなかった。けど、だんだんと思考が明瞭化していくとともに、一つの予感が頭に廻った。それを打ち消すように頭を振っていると、
「彼方さんが危篤状態という話が、いま病院の方から学校にあった。」
と、先生がこわばった表情で告げた。どうやら、僕の予想が的中してしまったらしい。僕は、あの時に彼方から軽く聞いていたので、そこまで驚きはしなかったが…
隣りに立っている暁さんは、驚きと恐怖の混じった表情をしていた。最初は、僕もどう声をかけていいかわからなかった。けど、取り敢えず連れて行かなきゃいけないので、
「まあ、まだわからないしさ。とりあえず行ってみよう。」
と根拠のない言葉を重ねて、暁さんの荷物もまとめて持って、学校を出た。学校を出ると、暁さんは現状を理解したのか、出せる最速で病院に向かった。荷物を持っていたので、僕も急いだけど、少し追いつかなかった。
病院に入ると、いつもの受付の人も、僕達の顔を見ると、先に行きなさいとでも言わんばかりの表情をしていた。急いで昨日まで彼方のいた病室をめざした。
そして、病室の扉を開けると、人工呼吸器を付け、常時バイタルを計測する機械に繋がれ、昨日よりも多くの点滴に囲まれ、彼方が眠っていた。近くには、いつもの先生や看護師さんが周りについていた。
僕もその姿にはかなり驚いたけど、まだ昨日を見ているから、一応飲み込めた。ただ、隣の暁さんは、信じられないという表情をしていた。まあ、そりゃ一昨日には、少なくとも元気そうには見えていたから、元気だと信じてたんだろう。
暁さんは状況を僅かに飲み込むと、すべての荷物を放り出して、彼方の近くまで飛ぶように移動した。周りの医療従事者たちも、一切暁さんの行動を止めず、ただ邪魔そうに点滴や機械をどかしていた。暁さんは、彼方の手を強く握って
「戻ってきてよ。お願いだから、もう一度だけでも、声を聞かせてよ。彼方。」
と、泣き叫んだ。その言葉に応じようと、彼方の体がかすかに動いたのを感じた。そして、彼方の唇がわずかに動いて、精一杯の言葉を紡いだ。
「お姉ちゃん、幸せにね」
かすかな声が、暗雲のような空気に僅かな光をもたらした。そして、彼方はさっきと同じ体勢に戻っていった。暁さんは、まだ信じられない様子で、彼方のことを呼び続けた。けど、その声掛けに応じる気力は、もう彼方には残っていなかったらしい。バイタルもだんだんと沈んでいるように見える。
僕も、彼方のところに歩み寄り、彼方の手を握った。その手は冷えてはいたが、まだぬくもりを保とうとしていた。彼方が最後の力で病気に抗っていることが、手を伝ってきた。彼方の手にぬくもり戻そうとしながら、誰にも聞こえないぐらいの声で一言
「頼む、彼方」
と、こぼした。誰にも聞こえないように言ったつもりだったけど、静寂を割いたその声は、全員に伝わっていた。
それから、何秒、何分、何時間がたっただろうか。僕らは、ただただ彼方の復活を祈り続けた。
あの元気そうな顔。いつも僕らの会話を明るくしていた声。子供っぽさの抜けない愛らしいしぐさ。戻らないなんて、信じたくなかったんだ。知っていたはずの未来なのに、今更抗いたくなってしまったんだ。
病室に差し込む光が描く影が短くなったころ。ずっと押し黙っていた先生が一言
「暁 光さん。すみませんが少し話させてください」
そう言うと、病室の隅、彼方から離れたところに暁さんを呼んだ。いつもの優しい声音で、非情で残酷な現実を暁さんに伝えた。
「見ての通り、彼方さんはもう限界状態です。このままだと、明日まで持つかどうかわからない状態です」
僕は、彼方の手を握りながら、その話を聞いていた。昨日のあの様子は、さすがに辛そうだった。とはいえ、昨日は話もできていた彼女が、たった二日もしないうちにいなくなるなんて。小児病棟に数ヶ月いた僕でも信じられなかった。
「彼方…」
と、僕はつぶやくように言った。それから、先生が暁さんをなだめている様子を横目に見ていた。その後、先生に連れられるように、暁さんが病室の外に出た。そして、病室には僕と看護師さんと彼方だけが取り残された。
看護師さんは、僕のことは見て見ぬふりをするかのように、点滴の交換などの作業をし続けた。いつもだったらすごい微妙な雰囲気が漂いそうだけど、今日は二人の間の空気が統一されていた。だから、僕も彼方のことだけに集中していた。
けど、実は心の中で半ばあきらめがあった。僕の両親の時は、死ぬ直前に合う事さえ叶わなかった。全力で手術をしてくれていたらしいけど、声を交わすどころか、手のぬくもりさえ味わえなかった。だから、この状態でも会えることは、最悪の場合ではないんだ。
そういう思いもあり、生きている彼方にもう一度で会えただけでも、僕にとっては幸せなことだった。もちろん、彼方がいなくなるのは、とても悲しいことではあるけど。
なんて、完璧な集中とまではいかない精神状態をしていると、暁さんが帰ってきた。後ろにはいつもの先生が、人を慰めるときのやさしさと、人の不幸に対する哀愁を漂わせる表情をしていた。暁さんの様子を見ると、少し緊張が和らいだような感じで、泣き止んでいた。そして、暁さんも彼方の手をつかもうとしたとき
ぐ~
と、間の抜けた音が、僕のおなかから鳴った。すると、先生が「おいで」と言わんばかりの顔をして、病室を出ていった。気恥ずかしさを押し殺して、病室を出て、先生を追いかける。先生は僕が追いかけていることを知っていて、少しゆったりと廊下を進んだ。やがて先生が止まったのは、簡易的な食事スペースだった。ごみの様子を見ると、暁さんもどうやら来ていたらしい。先生は、近くの自販機から、適当なものを買って僕に渡してくれた。
「朝からずっといるんだから、おなかがすいているんだろう。ほら、これでも食べな」
僕も席について、渡された食事を焦り気味に食べ始める。味わうつもりはなく、ただの栄養補給的な意識でお腹に詰め込もうとした。すると、先生がやや呆れ気味の顔でこちらを見ながら、僕の肩に手を置き
「そんなに焦らない」
といった。その言葉に、ちょっと食べるのを止めていると、さらに言葉を重ねた。
「君のことだから、今すぐにでも彼方のところに戻ろうと思ってるんだろう。まあ、それが悪いとまではいわないよ。でもね、少し自分のことも考えてみたらどうだい。」
そういわれ、自分の体を見下ろした。まるで、学校の教師のように、話術が得意な先生は、その様子を見て少しずづ言葉をつなげていく。
「君は心配なんだろう。彼方のこともそうだけでなく、光さんのこともさ。 でも、今君が無理をしてしまったら、その時だれが光さんを支えるんだい?彼方君がいなくなったとき、彼女のそばにいてあげられるのは君だけなんだよ。君はもう、自分一人の命じゃないんだ。その体には、光さんの命もかかってるんだから、もうちょっと大切にしな」
と言って、先生の話は終わった。確かに、僕の命は僕一人のものではなくなってきている。一人だった頃の自分と比べれば、倍の重さがかかっているんだ。もうちょっと大切にしなきゃいけないのかもな。
そして、僕はさっきよりもしっかりと咀嚼するように心がけた。気が付けば、先生からもらったご飯はなくなっていた。前を向くと、先生が僕のことを見透かしているような顔つきで、僕の先を見ていた。そして、急に視線を僕のところに戻して、また話し始めた。
「そうそう。この話はもう聞いたかい?光さんの話」
僕は反射的に問い返した。
「暁さんが何かあるんですか?」
先生は少し前のことを語るかのように話した。
「彼女の精神的問題さ。彼女はどうしても、人を失うことが耐えられないようなんだ」
「その話なら、軽く彼方から聞きました」
先生は病室の空気を思わせるのしかかるような言葉を発した。
「そうかい。それなら知っていると思うけど、光さんのことをちゃんと支えるんだよ。崩壊するかもしれないんだから」
僕は思い岩を運ぶかのような心持ちで答えた。
「わかってます。それが、彼方の最後の願いでもあるんですから」
先生は僕の顔を見ながら、よくわからないと言った表情をした。
「う~ん。君と彼方君の関係がいまいちわからないけど、まあその時のためにいくらかは備えておくんだよ。」
「はいはい」
すると、先生は自販機の横に置いてある籠の中から、紙とペンを取り出して、僕に渡した。それは、一度見たことのあるサイズの、小さく切った紙
「君もいつかけるかわからないから、今のうちに書いておくのもいいんじゃないかな。短冊に掛けた願いは、叶うかもしれないからね」
「非科学的ですけど、望んでしまいますね。取り敢えず、書いてはおきますけど、まだ掛けません。多分、掛けるタイミングがありそうなので」
と、先生に告げて、短冊に願いを書き込んだ。どうせ非科学的で、叶わない夢だとしても、願ってしまうのだ。そんな、希望さえもない望みを一つ、そして、頑張ればできそうな願いを一つ書いた。少し震える手で、必死に綴り終えると、先生から声を掛けられた。
「もう書き終わったみたいだね。それじゃあ、その短冊は持っておきたいなら、折らないようににポケットにでもしまっておきな」
と言われて、とりあえず制服の上着の内ポケットに、短冊をしまった。すると、先生にもう帰りなさい、と言われたので、先生をおいて先に病室に戻った。帰り際に先生を振り返ると、先生も短冊を書いていた。
病室に帰ると、さっきの僕と全く同じように、暁さんが彼方の手を握っていた。僕も、反対側の手を握って祈りをささげた。
思考が単一化されると時間が過ぎることに気が付けないのだろうか。ただ、彼方のことだけを考えていると、太陽が真南から傾き、気が付けが地平線沿いに見えるようになっていた。けど、一向に僕らが、彼方への祈りを続けていると、月が昇り始めて、気が付けば満月が真南に来ようとしていた。