人のふり見て…

 次の日。僕は、自分の体調があまりすぐれないので、病院に向かった。今日は、学校帰りだったけど、暁さんはついてきていない。いつもなら一緒に行くところだけど、今日は僕の診察だけの予定だから、先に帰ってもらったんだ。

 今日は雨がずっと降っていて、とても憂鬱な気分だった。雨のせいで、数十メートル先さえもまともに視認できない。梅雨の中でも、かなり強い雨で、傘がいまにも手から落ちそうなほどだった。雨の少し酸味のある匂いが空気を汚染していて、薄暗い気持ちに拍車をかけていた。

 病院に入ると、いつものアルコールのにおいで満ちていた。ただ、受付にあまり人がいなかった。学校帰りのこの時間ということと、強い雨のことも有ってか、僕ともう数人が座って待っているだけだった。

 すぐに受付も済んで、診察室に向かう。診察室もいつもと変わらないはずなのに、何かが違う気配や空気を感じる。

「失礼します」

 扉を開くと、少しうつむいて、目じりに涙が寄っている先生がいた。僕がこの部屋にいることに気が付くと、一度目元を服で拭ってから、いつものそぶりをして見せた。

「やあ、久しぶり、でもないか」

「このところは高頻度で来てますからね」

 先生は僕の胸のあたりを凝視しながら言う。

「それだけ体調がよくないんだろう?久しぶりに検査するかい?」

 僕は先生の誘いを、手を振って断った。

「いや、今日は普通の診察だけでいいです」

「そうかい」

 と言って、聴診器を取り出した。どうせ先生は僕が断ることは知っていたから、僕を試したんだと思う。僕が入院するか今の生活を続けるか、楽をする核を選ぶかを。

 先生が聴診器を僕の左胸のあたりに当てた時に、また悲しそうな表情をしていた。けど、何もなかったかのように診察を続けた。

「まあ、あんまり優れてるわけじゃないね」

 患者の前でも遠慮せず言う先生に、僕も素直に答えた。

「否定はできませんね」

 すると、先生は軽く微笑みながら僕の顔を見た。

「君らしい言い方だね。まあ、これからは要注意しておくんだよ」

 と言って、薬の準備をしようとする先生を止めるように、先生の背中に言葉をかけた。

「先生、一つ聞きたいことがあるんですけど」

 薬の準備をやめないで、先生は背中越しに僕に答えた。

「どうかしたかい?」

「彼方のことなんですけど」

 すると、何やら先生が、これまで見たどの表情とも似つかわしくない複雑な表情をした。そして、しっかりと僕の方を向いて、

「まあ、君と同じような状態だよ」

 と、厳しい表情で伝えてきた。その瞬間、僕は二つのことを理解した。それは、彼方のことと、そして…

「まあ、とりあえず薬渡しておくよ。あと、彼方のとこに行ってきな」

 と言って、涙の香りのするいつもより多めの薬と、彼方との面会許可証を手渡してくれた。

「ありがとうございます」

 先生はわずかに照れくさそうに答える。

「そんなにかしこまらなくていいからさ。ほら、彼方のとこに行ってきなさい」

 先生は僕のことをさっさと追い出そうとした。あの先生がなにを思っているのかは定かではないけど、いつもとは少し違うってことだけはわかった。

「じゃあ、行ってきます」

 と言って、診察室を出て彼方の病室に向かった。彼方の病室までの道のりは、真っ黒く無限に続くような気がした。しかし、実際はそんなことはなく、すぐについてしまった。

「入るよ」

 と言って、扉を開けると、そこには昨日と打って変わって、点滴が何台も置いてあった。そして、その点滴の針の先には、苦しそうな表情をした彼方がいた。

「か、なた?」

 すると、彼方は僕に気が付いて、無理にいつもの笑顔を作ろうとした。もう、寝返りを打ってこっちを向くのさえつらそうなのに、表情筋をこわばらせながら、元気な表情を作って見せた。

「こんな姿でごめんね、お兄ちゃん」

「彼方、これはそういう、ことなのか?」

 多分これまでしてきた質問の中で、一番の愚問だろう。けど、僕の口から出たのは、この質問が精いっぱいだった。

「まあ、ね。昨日は、来てくれる雰囲気があったから、先生にお願いして全部外してもらったんだよね」

「そこまで無茶しなくても…」

 僕の言葉が続かなかった代わりに、彼方が言葉を挟んだ。

「ぎりぎりまでお姉ちゃんには心配をかけたくないんだよ。お兄ちゃんだってわかるでしょ。お姉ちゃんに辛い顔は見せたくないの」

「まあ、僕もそれやってたからさ。すごい共感はできるけど、無理に点滴抜かなくたって…」

 そう言いながら、僕は自分のしてきたことを思い返した。自分でも言えた義理じゃないと確信してから、もう一度彼方を見た。

「最後の最後までお姉ちゃんにはばれたくないんだよ。流石にお兄ちゃんには隠せなかったけど。」

 そういって、彼方は疲れたようにぐったりして、もう一度こっちを向いて口を開けた。無理をしながら笑わせようとした彼方の言葉に、僕はなにも反応できなかった。いや、無視ではない沈黙をした。

「お兄ちゃん、ちょっと耳貸して」

 と言われたので、周りの点滴を、抜かないように気を付けながらどかして、彼方の口元に耳を寄せる。かすかな彼方の吐息が耳に聞こえた。そして、僕にも聞こえるか聞こえないかのぎりぎりの声で、衝撃の言葉を言った。

 驚いて僕は、何かを見たわけでもないが、目を見開いた。

「お姉ちゃんには言っちゃだめだからね」

 と言って、彼方は手で僕に離れるように指示した。僕は、驚きが落ち着かないまま、とりあえず彼方から離れた。

 数分間、僕は動くことすらできなかった。彼方の言葉の意味はわかっているのに、理解が追いつかない。やっと頭の整理が追いついたから、彼方に声をかける。

「じゃあ、彼方。何か僕にできる願い事はある?」

 彼方は軽く呆れたように吐息を漏らしてから、いつもの希望に満ちた目で

「私がいなくなった後のお姉ちゃんを幸せにすること。」

 さっきと同じくらいの愚問だった。と跡から悟ったけど、何度でも彼方から聞くことに、僕はかすかではない意味を感じていた。

「じゃあ、その願いは僕がしっかりとかなえるよ。でも、なんでそこまで暁さんのことを心配してるの?」

 初めて言われたときから、かすかに疑問に想い続けていたけど、聞けなかったことを率直に聞いてみた。さっきと同じような答えが帰ってくるだろうと、心の中では楽観的に予測していた。でも、彼方の口から漏れた言葉の重さは、この空気の比重以上だった。

「実はね」

 と言って、しっかりと僕の目を見れるように向き直ってから、話をつづけた。いつもの明るい声とも、僕のことを見透かしたように離すときとも違う、漆黒の反射のすらない声で。

「昔、お姉ちゃんは2回おかしくなってるんだ」

 僕はその言葉の前半しか理解できなかったから、前半しか問い返せなかった。

「2回も?」

 淡々と話を続ける彼方の声。抑揚の波がないから、言葉が乱反射しない。

「うん。一回目は私が入院した時。その時はまだいい方だったけどね」

 最初の言葉の意味をようやく理解できた僕の中に生まれた、新しい疑問を投げかけた。

「どんな感じにおかしくなったの?」

 すると彼方は僕ではないどこかの方を向きながら答えた。

「存在しないものと会話するんだよ。あの時は、家で私と話してるふりをしてたって聞いたよ」

「でも、彼方はここに入院してたんでしょ」

 彼方が視線を合わせている方を見ると、そこはいつも暁さんが座っていたところだった。彼方の声と重苦しい空気の僅かな温度差から、そこに蜃気楼が生まれたように感じた。

「そうだよ。家にいないはずの私とずっと話してたんだって。最初はお父さんとお母さんも、ただの遊びだと思ったって言ってた。でも、それがあまりにも長かったし、その話をすると、いつになく真剣な表情になるから怖かったって。面会に来たときに話してたよ。」

 僕は幻覚と離す暁さんの姿を想像しようとした。でも、暁さんの性格からそんなふうな姿は想起できなかった。

「それは怖いな。あんなにまじめな人なのに。」

「あれだけまじめだからじゃないかな。多分心の中じゃ、私たちにすがってるから、今のままの真面目さができるんだよ」

 その言葉に、暁さんにあったばかりの頃を思い出した。家に未だに彼方の部屋をおいてあるぐらいに好きだったんだった。僅かに心に言葉が落ち着いた時、僕は彼方に話しの続きを求めた。

「確かに、それはあるかもね。ちなみに、2回目は?」

 彼方は2のハンドサインをしながら言った。

「お父さんたちが海外に行っちゃったときだね。あの時はもっとひどかったね。」

「もっと?」

 反射的に僕が聞くと、彼方は少し身震いでもするように縮こまった。

「うん。私の前でも見えてると思ってたし、私にも見えてると思ってるから怖かったよ。」

「目の前で見たら怖そうだな」

 彼方はまた新しい、悲しみに満ちた眼差しを僕に向けた。

「あれは結構つらいよ。この病院の中でそんなことをするもんだから、一回精神科に連れてかれたことまであるんだ。」

「それで、どうだったの?」

 僕は彼方の話を急かした。時間がないわけじゃないけど、少しでも早く話してほしかったんだ。

「一応先生も、かなり危ないと思ったらしくて、一時的にお父さんたちに帰ってきてもらったんだ。それで、それからはなくなってたかな。」

 僕は、もしもではない、彼方がいなくなった跡のことを、勝手に想いながら言った。多分末期患者に対しての最大の冒涜とも取れる発言をしてしまった。

「でも、今回はさすがにそれはできないからね」

 彼方は、僕の無遠慮な言葉に対して、睨むようにも縋るようにも見える視線で答えた。

「だから、そうなったときのことを、お兄ちゃんにお願いしてるんだよ」

「なるほど。わかったよ、何とかしてみせるよ」

 この話を聞いて、ちょっとだけ暁さんの裏面を知った気がした。そして、この僕でもできるんだろうかという、不安が重なった。

 これからのことを考えて気が重くなっていると、彼方が無理して、横の引き出しから何かを出した。

「これ、お兄ちゃんに託しとくね」

 そういって渡されたのは、しおりのような形をした紙に薄い白い紙が巻かれているものだった。僅かに光が透過して、その裏にあるのが蒼い紙だということだけはわかった。僕は紙をじっと見つめながら、彼方に聞いた。

「これは?」

「短冊だよ。私がかけられるかわからないから、お兄ちゃんに託しとくよ」

 それを聞いて、僕はもう一度まじまじと短冊を見てから

「わかったよ、任せといて」

 と、格好つけていった。短冊を持ってきた鞄にしまう。話が途切れて、灰色の空気が立ちめる。これからの話のタネを探そうと、辺りを見回していると

「もう話すことないのならかえって」

 背中から刺されたように、その言葉は僕の心を貫いた。

「え?」

 驚いて彼方の方を見ると、さっきよりも体を丸めていた。

「たとえ病人同士とはいえ、お兄ちゃんにもつらい姿を見せたくないからさ。それに、お兄ちゃんだってその見た目からすると、良くない状態なんでしょ。だから、今日はもう帰って。」

 気がついたら、僕は自分の手で心臓を強く抑えていた。同じ病人同士だと、お互いに隠し事はできないらしい。そのことも有って話をせ関したんだし、今日は少し早く帰ることにした。

「彼方がそういうなら仕方ないかなあ。じゃあ、今日は帰るよ。」

「うん、ばいばい」

 扉に行くと見せかけて彼方の様子を見る。たくさんの点滴に繋がれて、不自由そうに寝返りを打って、僕を見ようとしなかった。そんな彼女に僕は希望の一言を掛けた。

「また今度」

 と言って、僕は彼方の病室を出た。そして、あの真っ暗で無限に続く道をたどるのだった。外の雨も、透明感が抜けていて、暗闇が降り注いでいるような感じだった。豪雨の静寂と、僅かなざわめきを抱えながら家についた。

「ただいま」

 家に入ると、いつもと変わらない暁さんの姿がそこにあった。

「あ、おかえり。今日の診察どうだった?」

「いつも通りだよ。診察が変わることはないからね。」

 自分でも笑っちゃうぐらいに薄っぺらい嘘を吐く。

「まあ、それもそうだね。いや、いつもより遅いからさ、気になっただけだよ」

「先生と雑談してたから、いつもより遅かったんだ」

 いつものように手を洗う。今の僕には、その一つ一つがとても大切に感じた。

 リビングに入ると、暁さんはまだ料理が終わっていない様子だった。その背後に、おかしくなってしまった暁さんの影が見えるような気がした。

「まだご飯まで時間かかりそう?」

 暁さんはフライパンの様子を見ながら答えた。

「ん~。まだ時間かかりそうだね。お風呂入ってきていいよ」

「わかった」

 そうして、なんだかすごい久しぶりな気がするお風呂に入った。そして、お風呂の中でまた考え事をした。

 今日、彼方との話や、先生と話して一つ分かったことがある。  もう時間が少ないんだ。暁さんのために使える時間が、もうほとんどない。そんな中で、どうやって暁さんを幸せにできるのだろうか。

 バレンタインの後、ずっといろんな策を講じて、暁さんを幸せにしようとした。ちょっとしたプレゼントをしてみたり、休日のごはんを作ってあげたりした。でも、それは幸せにつながってたのかわからない。一瞬の幸福にはなるかもしれないけど、それが彼方が慰安くなったときまでは持たないと思う。

 これまで、暁さんが幸せそうにしているところがほとんど見れていない。だから、彼方にもしものことがあった後に、暁さんを幸せにする方法が分からない。しかも、僕にも長い時間があるわけではない。だから、なるべく手短に、上手くやらなければいけない。小手先芸といえば聞こえが悪いけど、最短で幸せにする用法を選びたいんだ。

 しかも、暁さんは精神崩壊する可能性があるらしい。そうなってしまった場合、僕はどうしたらいいんだろう。 そのまま事実を伝える?でも、それで余計悲しんでしまうかもしれない。 その幻覚に付き合う?それだと暁さんは前に進めない。

 もう、どの行動が暁さんのためになるのかが分からない。暁さんの家事を手伝うこと?サプライズのプレゼントを用意すること?他の発送が思いつかないことに苛立ちを覚える。

 今日ばかりは、この万能なお風呂も役に立ちそうもなかった。僕の暗闇を巡る思考回路を吹っ切れさせる程の力はなかったのだ。それから、僕はずっとお風呂の中で考え続けた。何をどうしたら暁さんが幸せになるだろうか。そして、もしも暁さんが狂ってしまった時に僕はどうすべきか。

 ただ、ひたすらに考え続けても答えは浮かんでこない。挙句の果てに、過去の自分を恨んでしまう。暁さんを幸せに出来る方法を、検証できなかった自分を恨んだ。

 そして、何の成果もあげられないまま、お風呂から上がらざるを得なくなってしまった。

「お風呂出たよ~」

 と言いながらリビングに向かうと、美味しそうなご飯が準備されていた。暁さんはだいぶ前に準備を終わらせていたらしく、気ままにテレビをつけながら椅子に座っていた。

「もうご飯は準備できてるから、食べよ」

「うん」

 と言って、お互い席に着いた。合掌をして、お互いの目が合ったら、

「いただきます」

 と言って食べ始めた。食べている間、暁さんと話そうと思った。ただ、どうしても僕と暁さんの間の空気のギャップで、うまく話しかけられなかった。

 この無言の暗い雰囲気で食べるご飯の味は、無味に近い。その甘さも、しょっぱさも何も感じられなかった。これほどつまらないご飯はないだろうと思えるぐらいだった。暁さんの料理の質は何ら変わっていないと思う。でも、いつものようなハーモニーを感じられないままに食べ終えてしまった。

「ご馳走様」

 と言って、食器を片した。適当に、汚れを流して、食洗器に入れておいた。

 ご飯を食べているときから、どうしても暁さんと目を合わせられないでいる。彼方のことで、隠し事をしているからだろうけど、目をそらしてしまう。そして、暁さんは僕のしぐさを知っているから、多分何か隠し事をしていることはばれてるだろう。この隠し事は内容が問題だから、内容をさらに隠してしまえばいいんだけど。

 それから、僕はずっと椅子に座ってぼーっとしていた。暁さんも、何かを察したように、僕に話しかけてくることはなかった。ただ二人で延々と流れるテレビを見続けた。

 その間、いろんなことを考えていた。

 気が付けば、夜になっていて、気が付けば、真夜中になっていた。暁さんは小さなあくびを漏らしてから、テレビに書かれている時計の時刻を確認した。

「私、もう寝るから。蓮も遅くならないようにするんだよ。」

 と言って、暁さんは二階に上がってしまった。一人取り残された僕の周りに広がる空気は、静寂から暗闇に変わっていた。静寂を追い求めるように、暁さんに続くように、僕も自室に帰った。

 いつものように布団に入った。しかし、眠気は一向に襲ってくる様子がなかった。どうしても、これからのことを考えてしまうのだ。

 いつもみたいに、どうにかなるだろうみたいな、楽観的にはなれなかった。まあ、当然のことだろうけどさ。昔みたいに、時間をかければ何でもどうにかなるとは、言えないから。だって、その時間が足りなさすぎるから。同じくらい生きていられるなら、一生寄り添うことだってできる。でもそんな選択肢すらないんだ。

 まとまるはずのない思考の渦。台風の目のように、あらゆる混沌としたものが僕の周りに集められた。

「起きるか」

 と言って、僕は一階に降りて、鎮痛剤をもう1錠飲んだ。やはり、彼方だけでなく、僕の体も病気に侵食されつつある。鎮痛剤が効きだすまでの20分ほど、椅子に座って考え事をした。もう一度布団に入ると、睡魔がやっと来てくれた。

updatedupdated2024-11-072024-11-07