悲愴の予兆

 実は、このところテスト勉強のために彼方になかなか会いに行けなかったんだ。ようやくテストも終わって、二人で彼方に会えることをいつも以上に楽しみにしていた楽しみにしていた。

 病院の玄関前の花壇では、梅雨時期に合わせて紫陽花が見ごろを迎えていた。美しい紫と青の広がりを見ていたら、時間が過ぎたのだと悟った。彼方に頼まれて、暁さんを幸せにするという目標ができてから、五カ月以上がたったのだ。あのときに咲いていたのは椿の花ぐらいだったかな。裏口から出ちゃったから、想像することしかできないけど。

 紫陽花を眺めていると、暁さんから声をかけられた。

「あれ、紫陽花そんな好きだったの?」

 僕は紫陽花辛子線をそらさずに答えた。

「いやさ、僕らが逢ってから時間が経ったんだなって思ってさ」

 暁さんの方をちらりと見ると、僕と同じように紫陽花の咲いているのを眺めていた。

「そうだね~。もう六月も下旬だし、かなり経ったんだね」

 ふと初めてあったときのことを思い出した。彼方にお願いされて、病室を抜け出してから、学校に言ったあの日のことを。

「はじめは将棋したり、一緒に問題解いたところから始まったんだよね」

「あの頃が懐かしいね。彼方元気にしてるかな?」

 と言って、暁さんは彼方がいるはずの病室に視線を向けた。

「きっと元気にしてるよ」

 僕は根拠はないけど、自信を持って言った。それから何回通ったかわからない病院の中に、二人で入った。手短に手続きを済まして、彼方のいる病室に向かう。受付の人から渡された病室の番号は、いつもの番号と別の場所を示していた。

「あれ?病室変わった?」

 暁さんは不思議そうに言った。僕はその番号を見て、病院の構造を思い出しながら答えた。

「本当だ。個室になってるね。」

 前は僕がいた複数人の病室だったのに、今は個室になっている。もしかしたら…。いやな予感が首筋をなぞって後ろに抜けてった。それを振り切るようにして、はや歩きで彼方の病室に向かう。扉の前まで着くと、二人で少し顔を見合わせた。

「まあ、とりあえず入ろうか」

 と暁さんが言ったので、二人で扉を開けて、彼方の病室に入る。

「久しぶりだね。お姉ちゃん、お兄ちゃん。」

 そこには半分体を起こして僕らを出迎える、いつも通りの彼方の姿があった。暁さんは、その姿を見て、うれしさのあまり彼方に抱き着いていた。彼方は暁さんのことをなでながら、お姉さんぶって言った。

「あはは。お姉ちゃんが甘えてくるなんてね。」

 暁さんは少し彼方から顔を離した。

「久しぶりに会えてうれしかったんだよ。テスト勉強とか、新しい学校に通ってるからなかなか会いにこれなかったからね」

 暁さんの話を聞き終えると、彼方は急に視線を僕に向けながら言った。

「そうそう。二人ともどうなの、高校生活は」

 暁さんが僕の方を見て言う。

「楽しいよね、蓮」

 彼方と暁さんの二人に同時に見られたからか、それとも考え事をしていたせいか、少し反応が遅れた。

「あ、うん。同じ高校だし、あんまり中学と変化はないかな」

 彼方は僕と暁さんを交互に見ながら言う。

「本当によかったよ。二人が同じ高校に通えてさ。」

「受験勉強とか大変だったよ  結果二人とも合格できたからよかったけどさ」

 と、言いながら、ふと彼方のベッドの近くにある机の上に視線を飛ばした。そこには予想通りに大量の薬があった。二人はこちらに気が付いていないみたいだから、僕も気が付かなかったふりをする。

「そういや、お兄ちゃんはこのところ体調どうなの?」

「僕は問題ないよ。生活環境変わると、危ないかなって思ったけど、何とかなってるよ」

 僕は自分の心臓に手を当てながら答えた。少しだけ鼓動が強く感じられるようになった気がする。

「それならよかった。前みたいに入院したらびっくりするからさ。」

 そう言いながら、彼方は存在しない隣のベッドに視線を飛ばした。僕もそれにつられて、僕のベッドに視線を投げた。

「そんなこともあったね。まあ、今は元気にやってるよ。」

 それから、日が暮れるまで新生活の話で盛り上がった。その間ずっと彼方のことが気にかかっていた。でも、暁さんの前でそのことを離すわけにも行かないから、ずっと無視し続けた。やがて、日も暮れて面会時間が終わりを迎えた。

「じゃあ、今日はそろそろ帰るね」

 前よりもだいぶ日が長くなったから、夕焼けの時間でも面会は終わりなんだ。

「また会いに来てね。じゃあ、お兄ちゃん頑張ってね」

 彼方の目が僕の方を向いていた。その目は、いつもの明るい光を宿していなかった。それに、僕は一瞬で彼方の言葉の意味を悟った気がした。その空気をかき乱すように、暁さんが割って入った。

「え~。私は応援してくれないの。」

 すると、いつものように茶化さないで、彼方は少し真面目に言った。

「だってお姉ちゃんはいつも頑張ってるじゃん。逆に少し休んでほしいくらいだよ」

 暁さんは彼方に笑いかけながら答える。

「確かにそうかもね。それじゃあ、じゃあね」

「うん、ばいばい」

 彼方に手を振られながら、僕らは彼方の病室を出た。受付に向かいながら、暁さんと話す。

「彼方が元気でよかったね」

「うん。いつもみたいに喋れて楽しかったよ。」

「彼方と話してると日が暮れちゃうよね。」

「そうだね。今日もあたりは暗くなってきてるし。時間を忘れちゃうよ」

 行きの手短さと異なり、帰りは名残惜しそうに手続きをしていた。外では、梅雨時の代名詞の長い長い雨が降っている。

「今日は雨が降ってるよ。帰りどうする?」

「濡れたくないしバスに乗って帰ろうよ。今あるの、暁さんの折りたたみ傘だけだし」

 僕は彼女の鞄を指差した。

「それじゃあ、バスに乗ろうか」

 二人で秒ンを出て、目の前のバス停に向かうと、ちょうどバスが止まっていたので、駆け込んだ。バスの中でも、彼方のことが頭から離れなかった。普通に考えて、病室が急に変わることなんてないだろう。もしも、病室が急に変わることがあるのは…

「次は1丁目です」

 気が付けば、降りる駅についてしまった。僕と暁さんだけが、その停留所で降車した。

「私の傘、入る?」

 暁さんが、小さめの折り畳み傘で僕まで雨から防ごうとした。

「いや、いいや。二人で入ったら、二人とも濡れちゃうから」

 僕はその傘から少し離れて、雨の当たるところに出た。すると、暁さんがちょっと悲しそうな横顔をしていた。それから、僕らは話すこともなく、家に戻った。

 この傘の件があってから、僕らはずっと話さなかった。なんだか、すごい違和感があった。けど、話さない以外はいつも通りの生活を満喫した。お風呂に入って、ごはんを食べる。

 ずっと話さなかったから、寂しさを覚えたけど、そのまま寝ることになった。ただ、寝るのにも一つだけ問題があった。それは、彼方のことを心配できるほど僕の体調も良くないことだ。

「うぅ…」

 あまり強まらない鈍痛が、彼方のところに行ったあたりからずっと続いているんだ。薬の飲み忘れでもないから、急激に倒れるってことはないと思うけど、なかなか収まりそうにない。微弱で鬱陶しい痛みを胸に抱え込んで必死に耐えていると、いつの間にか寝ていた。

updatedupdated2024-11-072024-11-07